日本の裏歴史の舞台は、住居表示という制度により地名を隠蔽され、それとともに歴史すら封じ込めようとされている。特にその傾向は被差別民が暮らす地域や元遊郭などに当てはまり、大阪でも飛田や松島という「隠された地名」を呼ぶことでその「場所」を象徴的に示す習慣に残っているだけだ。
これから向かう「吉原」は江戸徳川幕府の時代に開かれた、日本を代表する遊郭。
地名の語源の一つには葦の生い茂る低湿地にあったことから「葦原」と言われた土地に、「葦」は「悪し」に繋がり縁起が悪いからと「良し」の「吉原」になったという説がある。
1617年、徳川幕府の公認で現在の日本橋人形町に生まれた吉原遊郭は、1657年の大火により焼失。その後、浅草の外れにあるこの場所に移されてきた。
しかしやはりこの場所も住居表示によって存在を消され、一見するとどこにあるか見当もつかないのだが、それは浅草の北1キロの位置、現在の住所では台東区千束三丁目・四丁目にあたる部分に今も残されている。
吉原大門交差点には花街であったころの名残を残す「見返り柳」が今も立ち続けている。目の前がガソリンスタンドで幅広の道路だから風情もへったくれもないのが残念なんですが。
吉原へは浅草からも行けるが、地下鉄日比谷線の入谷もしくは三ノ輪から徒歩でも構わない。しかしどの駅からも遠い場所にあるので都営バスを使うかタクシーを使うか、もしくはソープランドの送迎バスに乗って行くのが普通だ。(ただし送迎バスは諸事情により現在運休している)
見返り柳が立つ吉原大門交差点の向かいには、古い屋敷に「天麩羅」「桜肉鍋」と書かれた二つの店が並んでいるのが妙に目に付く。
左側の桜肉鍋の店は「中江」という、広い東京でも数少ない桜鍋(馬肉の鍋)の専門店。右側の天麩羅の店は「土手の伊勢屋」。どちらの店も吉原遊郭の歴史とともに時を刻んだ名店。
「中江」は築80年、「土手の伊勢屋」は70年以上の木造建築であり、その二軒が並ぶ姿は溜息が出るほどの風格。元遊郭か?と思ったが廓の外にあるので、違います。
吉原大門の外にあり、当時は山谷堀に沿った吉原土手の並びにあった。現在は土手も存在せずただの平地のまま。吉原土手は日本堤とも呼ばれ現在でも地名に残っている。
吉原土手と言えば桜肉というほどの名物だったそうで、「中江」の他にも沢山の桜鍋屋が軒を連ねていたそうだが、今でも馬肉専門の肉屋があり、当時を偲ばせる。
馬肉は居酒屋でも馬刺しとして食べる事が多いと思うがその他の食べ方はあまり普通の居酒屋では出てこない。
吉原大門の交差点から、かつて遊郭だった吉原の町の中に入る。途中で道が不自然なS字カーブを描いているのに気が付くだろう。わざとカーブを描いている事で廓の中が遠くから見えないようにしていたわけだ。
かつての吉原遊郭は「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ばれる堀に囲まれていたそうだが今ではそんなものもなく、歩いているといつの間にか街の中に入ってしまう。
「おはぐろどぶ」という名は遊女がお歯黒を捨てていたことから、ドブが汚くて黒いから、どちらの説が正しいのか、今は堀自体が消えて無くなっているので分からない。
大阪の飛田遊郭も周囲を高い壁に囲まれていたが、どちらも理由は明確で、借金の肩に連れて来られた遊女を外に逃がさないように仕組まれたものである。
四方300メートル程もある吉原遊郭の南側の敷地を見ると、遊郭側に微妙に土地が盛り上がっているのがわかる。これが「おはぐろどぶ」に向かい合って遊郭が周辺の土地より一段盛り土を施している跡だそうで、坂や段差になっているところを注意深く見れば吉原遊郭の名残りを見ることができる。
吉原の遊郭としての歴史は売春防止法施行された昭和33(1958)年に幕を下ろした訳であるが、今も見ての通り、東京最大の超巨大ソープランド街として、色街としての歴史は連綿と続けられているのだ。
もっとも大阪の飛田新地のように建物自体がそのまま残っている訳ではない。薄汚らしい雑居ビルのような店が密集しているだけで、飛田のような風情を期待して来ても想像とは全く違っているだろう。
しかし飛田と同じく、春を買いに来る男どもの連れ立った姿や、逆に春を売りにやってくるソープのお嬢がタクシーで乗り付けてくる風景は日常的に見られる。
廓の中では今でも常人の想像力をはるかに超える日常が繰り広げられている吉原の地。しかしその一歩外では普通の下町の日常が広がっているのみだ。その凄まじいギャップに驚かされるのは、飛田と全く同じ。












