明治から戦前まで新宿区富久町に存在していた「市ヶ谷刑務所」の跡地を歩く

新宿区

江戸時代の小塚原、鈴ヶ森、小伝馬町といった刑場から、現代の東京小菅にある東京拘置所まで、東京の片隅にひっそり存在する「お仕置き場」が気になってしょうがない当取材班がやってきたのは、都営新宿線曙橋駅が最寄りの新宿区富久町及び余丁町である。ちょうど、永井荷風先生が若い頃に住んでいた「断腸亭」があった辺りだ。

新宿区 曙橋

環状4号線(外苑西通り)の計画予定地に含まれている「余丁町(富久町)児童遊園」にやってきた。括弧付けなのは、余丁町と富久町の境目に2つの公園が隣接しているからだ。ここから富久町で建設が進められている55階建ての超高層タワーマンションがそびえる光景を眺められるが、そんな浮かれたタワマンとは裏腹に公園にはホームレスのオッサンオバハンがたむろしていて、さすがやっぱりホームレスの首都・新宿である事を再確認するのであるが…

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申し訳程度に児童遊園らしくあちこちに遊具が置かれている一方で、どうにも吉祥寺や世田谷あたりの幸せそうな親子や犬連れマダムばかりがいるアッパーな公園の風景とは真逆のどんよりした空気に満ちているのは、道路用地で歯抜けになった隣接する住宅街の存在だけではない気がする。いや、きっと気のせいだけではない。

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そんな公園の片隅には堂々と「東京監獄市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」と刻まれた石碑が置かれているのであった。日本弁護士連合会の名義で、昭和39(1964)年7月15日の日付が刻まれている。ああ、日弁連さんですか、そうですか。なお、石碑がこの場所にあるのはここに処刑台があった事に由来するという。

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後に「市谷監獄」と呼ばれ明治43(1910)年に豊多摩郡野方村、現在の中野区新井三丁目に移転するまであった「市谷谷町囚獄役所」が小伝馬町から移ってきたのが明治8(1875)年、それから旧鍛冶橋監獄署「東京監獄」が移転してきて開かれたのが明治36(1903)年で、後に「市ヶ谷刑務所」と名を改める。2つの「東京監獄」と「市谷監獄」が暫く近接していた時期もあって紛らわしいのだが、明治時代から昭和初期までの死刑囚がこの地で刑を執行されてきたという事である。

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市谷監獄で刑場の露と消えた罪人の中でも有名なのが日本における女性死刑囚で最後に「打ち首」を受けたという高橋お伝(明治12年没)。「毒婦」の異名を持って死後も様々な文学・映画作品のネタにされたというお方。

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一部が道路予定地のために緑のフェンスで遮られ虫食いだらけになったアレな土地となっているが、つまり新宿区富久町のこの界隈は、かつて昭和12(1927)年に巣鴨に移転する前まで「市ヶ谷刑務所」が存在していた場所なのである。

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そんな一見禍々しい歴史の残る場所だが、慰霊塔の周辺は極普通に住宅地が広がっていて、家賃の安そうなアパートもかなり混じっている。周辺の市谷台町だの住吉町だのは結構ちゃんとしたマンションが多いのに比べると、やはり心理的瑕疵が加わるのだろうか、明らかに町並みの発展度に違いを感じてしまう。

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それから、この地域の地図を見てみると、明らかに元刑務所だった時代の区割りがきっちり四角く残されていて、まるで吉原遊郭のあった台東区千束四丁目を彷彿とさせる不自然さがある。そのうち北半分が間口の狭い一般住宅地、南半分が都営住宅と都立高等学校に分かれているのが読める。巣鴨プリズンのように跡地がまるごとサンシャインシティみたいになれば、こんな歪な光景は見られなかったかも知れないが、都営新宿線や都営大江戸線が開通するまでは結構な陸の孤島だった場所でもある。

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住宅地の北側の路地に入ると、そこにも商店街の残骸のような一画があり、廃業した豆腐屋と洋食屋がシャッターを下ろしたまま向き合っている、これまた侘しい町並みに遭遇する。

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一体いつの看板なのか目を疑いそうになる「洋食フローラ」…いつ頃まで現役だったのだろうか…洋食屋だけでなく燃料運送も行っていたというが、局番は三桁のままだし、とにかく古い。

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その向こうには今でも地域の住民には必須のものとなっている町の銭湯「弁天湯」。この界隈はここ以外にももう一軒「大星湯」があり、山手線の内側なのに下町ムードが全開過ぎて穴場感が半端ない。このへんの住所は富久町ではなく「余丁町」。

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コインランドリー併設の弁天湯に隣り合って、まるで道路を塞いでいるかのように建っている緑色のトタン葺き平屋建て家屋。かなり掘っ立て小屋感が凄いが、どうやら居酒屋として営業しているというのだから、かなりそそられる。「蛍」というお店です。

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そんなグリーントタンハウスと銭湯の隙間の路地に入って反対側から見ると…本当に小屋が道を塞いでいる格好だ。なんとも個性的な佇まいの居酒屋、風呂上がりに開いていたら立ち寄りたい雰囲気がする。

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市ヶ谷刑務所跡の区割りが残るそのうち北半分の住宅地は、一部が環状4号線計画予定地のためにフェンスで遮られた空き地に変わっているが、まだ多くの家屋、それも古びて空き家になったっぽいものがそこかしこに残り、車も通れない狭い路地がそれぞれの区画の隙間を縫っている。

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そして、やたらと目立つ公明党のポスターが地域性を物語っているかのようだ。やはり周囲の地区と比べると、随分と忘れ去られたような佇まいである。

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市ケ谷刑務所が昭和12(1937)年に巣鴨に移転して東京拘置所と改称したのだが、跡地となったこの土地一帯は後のコクドの前身である箱根土地会社に払い下げられ宅地分譲されたという。つまりこの辺のやたら細かい区割りの住宅地はその頃の名残りなんでしょうかね。

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そんな富久町の刑務所跡地の住宅街、あまり気の利いた商店がないので不便そうなのだが、唯一地域のお買い物スポットだったらしいこちらの個人商店も「叔母さんが突然天国に旅立って行ってしまったので」と毎週月曜だけの限定営業になってしまったとの事。侘しいなあ…

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そして、元々この一帯の土地は市ヶ谷刑務所があった関係でその敷地の一部が公有地となっていたようで、戦後の昭和40年代になって都営住宅「市ヶ谷富久町アパート」が建設され現在に至っている。なかなか古ぼけた感じがたまらない。

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西側に5階建ての2号棟、東側に10階建ての1号棟がそびえていて、元監獄の土地だけあって相当やれた佇まいとなっている。この2棟の間に新宿区立富久町児童館、さらに南側に隣接して都立総合芸術高等学校の敷地が広がる。

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昭和の団地から平成のタワーマンションへ、同じ富久町に建つ集合住宅の新旧対比も見られるこの光景、東京ならではの街の移り変わりの激しさを思わせる。かつて市ヶ谷刑務所だったという歴史の因縁を携えたこの土地も、そのうちタワマン住民であろう犬連れリア充ファミリーがそぞろ歩くような街に生まれ変わるんですかね…


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