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かつて遊郭もあった中山道沿いの旧宿場町「板橋仲宿」を歩く (全2ページ)

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板橋の仲宿商店街がなかなか面白いと聞いていたのでやってきた。都営三田線板橋区役所前駅が最寄りだ。

仲宿商店街は旧中仙道の最初の宿場町「板橋宿」に沿って南北に伸びている。割とマイナーな板橋区の存在だがこの場所が所謂「板橋の中心」。傍目から見るだけには飾らない気取らない普通の下町といった印象。

旧中仙道仲宿交差点より北側が仲宿商店街となる。交差点角の鶏肉屋の前にこうしたいかにもな立て札が掛かっている。

板橋宿は明治17(1884)年の大火で大半が焼失されているが、街並みの古さを見るとかつての宿場町の名残りを充分に思わせる。わずかに蔵造りの商店も残る。「板五米店」という米屋のもの。両側が煉瓦の壁が立ちはだかっていて、防火を意識した作りだ。

板五米店の先から遍照寺に続く路地が隠れている。右側の建物の壁もなんだか独特だが、喫茶店として使われている。

遍照寺の境内は板橋宿の馬繋場で、板橋宿最大の旅館(妓楼)だったと言われる「伊勢孫楼」が隣接していた。板橋宿も品川宿や内藤新宿と同じように飯盛旅籠があり、150名の飯盛女を抱える事を許されていた。とても想像できないが、吉原に次ぐ大規模な遊郭だったらしい。

境内に入ると馬の供養のために置かれたという馬頭観音や庚申塔が置かれている。昔の人間は馬が車の代わりで、ここに馬が50頭くらい置けるスペースがあったらしい。

遍照寺は廃仏毀釈のあった明治初期に廃寺となったが、戦後に真言宗の成田山末寺として再興している。

遍照寺のお堂は路地の奥に窮屈そうにひっそり横向きに建っている。ちょっと雰囲気が暗い感じがするが、元遊郭だったせいだろうか?

遍照寺の寺宝として、堂内には明治期に描かれた板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められているらしい。見れないので残念だが、板橋宿と遊郭の関係の深さを感じる。

板橋宿は明治時代から大火や鉄道開通の影響で徐々に宿場町として寂れ始め、代わりに遊郭として栄えるようになったという。

のっけから遊郭の痕跡を伺わせるレトロで怪しい板橋宿。遍照寺の先の角を右に入ると、何の変哲もない住宅地にご立派な塀が残っているのが見える。

塀は途中からコンクリートから煉瓦塀に変わるが、結構な長さで残っている。これが板橋宿最大の旅館(妓楼)「伊勢孫楼」の塀だという。200人くらいが泊まれた大きな宿だった。

さらに塀は角を曲がってなおも続く。どんだけでかいねんと思う訳だが、現在敷地内は開業医と思われる個人の邸宅になっている模様。鬱蒼とした森になっている。

目の前が凄い大邸宅だったりするわけだが向かいが唐突にバラック建てだったりするのが板橋仲宿の面白い所。殊の外ボロ民家率が高い。

ちょうどこの辺が遍照寺の裏手になっている。見事にボロ民家ボロアパートだらけ。賑やかな商店街の一歩裏手がこれだから驚いてしまった。

商店街から外れると時代の流れなど何処吹く風というような風情の下町風景がひたすら続いている。

スーパー「ライフ」北側にある文殊院の境内にも、板橋遊郭で命を落とした遊女の墓が置かれている。いわゆる投げ込み寺である。ちなみにちょうど「ライフ」の付近が板橋宿本陣跡だった。

板橋遊郭が隆盛を誇っていたのは明治期だが、その後は寂れながらも昭和33(1958)年の売春防止法施行まで細々と「営業」が続けられていたと言われる。今ではそんな歴史すら感じさせない平凡な下町でしかない。

あと、板橋遊郭にあった妓楼「新藤楼」(昭和47年解体)の立派な唐破風のついた玄関が、赤塚の板橋区立郷土資料館に移築展示されている。

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