成田空港滑走路目前、参拝しただけで100%職質される禁断の「東峰神社」へ 

成田市

成田国際空港…東京から北東に60キロの位置にある千葉県成田市の三里塚地区に作られた日本最大の国際空港である。

1978年5月に開港して以来、日本を代表する空の玄関口で、日本最大の国際便発着枠を有する巨大ターミナルとして役割を保ってきたこの空港は、土地を守り抜こうと抵抗した農民と、極左過激派と警官隊との衝突による犠牲の上に成り立っている。

海外旅行がすっかり庶民の娯楽となり、多くの一般市民が成田空港を利用する機会を持った現代、成田空港誕生の裏に隠された、闇に葬られた「三里塚闘争」の歴史の存在と、そしてその争いが収束せずに現在も続いている事実は、あまりにも知られていない。

成田空港は世界的にも類稀なセキュリティチェックの厳重さで知られるが、その背景にはこの空港を取り巻くこれまた類稀な「問題」があるのだ。


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成田空港の敷地内には現在も土地収用に抗議する農民と、取り巻きの過激派による立ち退き拒否が続いていて、空港の第2滑走路となるはずの土地の一部が収用しきれずブツ切れになっている箇所が存在する。通称「東峰地区」と呼ばれる場所だ。

東峰地区の中には、周囲をまるごと高いフェンスと空港用地に囲まれて虫垂のように伸びている「東峰神社」という、見捨てられたように残る神社が今も存在している。

数多くの飛行機が発着する滑走路のすぐ脇に神社の敷地が残るという、かなり異様な状況が続いているのだ。東峰神社周辺は過激派のテロの標的とならないために常時警察による厳しい警戒が続く、ある意味日本で有数の厳戒態勢が敷かれる特殊地帯である。

成田空港から東峰地区に向かうと、その手前に天神峰という地区がある。この付近の土地も未収用地が残っていて、既に緊迫した空気に充ち満ちている。

ちなみに途中、道を間違えて成田空港内に入ってしまった訳だが、その場合は入口の検問で道を間違えた旨を伝えて、専用道路を通って戻らなければならない。その度に身分証の提示を求められる。成田空港では2001年のアメリカ同時多発テロ以降、とりわけ厳重にセキュリティチェックが続けられている。

天神峰集落には未だに生活者が一部に残っているようで、路線バスのバス停がちゃっかり置かれているのだ。

成田市のコミュニティバスもこの場所を通りがかっている。しかし時刻表を見るととても実用的ではない。1日数本しか走っていない。

さらに千葉交通のバス停も置かれている。しかし実際にこの場所まで行くとなると、電車とバスと徒歩だけではかなり厳しいものがある。自家用車かレンタカーを借りるとかしないと難しい。

そして、このバス停の真ん前にいきなり農地が広がっているのだ。ここが立ち退き拒否を続けている農家の所持する農地の一つで、反対派である「三里塚・芝山連合空港反対同盟」(まあ平たく言えば極左団体)が活動に加わり共闘関係にある。この近くには農家個人の居宅もあり、現在もこの場所で生活を営んでいる。

農地の奥には「団結小屋」と呼ばれる反対派が築いた砦状の構造物の存在も確認出来る。事実上この場所が反対派の中心拠点であるようだ。

我々が現場に行った時も数人の農民?がせわしなく農作業に追われていたのだが、その傍らでは極左団体おなじみの真っ赤なゲバ文字で「農地取り上げを許さない」と大きく書かれた看板が建っている。三里塚闘争は今に続いているのだ。

さらに「第3の誘導路計画粉砕」とある。

最近になって成田国際空港会社(以下NAA)が、この付近の土地を買収して新しい誘導路を建設する構えでいるという。

この農家の土地周辺は反対派の拠点が点在していて「団結街道」と呼ばれる約1.3キロの市道が走っているが、この市道が廃止されてNAAに所有権を移す手続きが今年6月中にも完了する予定でいるため、反対派が反発している。

つい先日、農家の地主であり三里塚・芝山連合空港反対同盟北原派の活動家が器物損壊容疑で警察に捕まるという事態も発生している(→詳細)今も緊張状態が続いているのだ。

農地が広がる目の前には幾つもの航空機の尾翼が顔を覗かせている。鳴り響くジェットエンジンの轟音。ここはまさしく空港のど真ん中。

ここまで成田空港の土地収用問題がこじれてしまったのには、当初の成田空港の土地収用のプロセスに国側の重大な怠慢があったからだと言われる。

空港建設地として、まずは現在地の南にある富里付近に一時決定したが、現地農民の反発が大きく頓挫、次いで国有地である三里塚御料牧場を含めた土地を、最も収用が楽と言う事で地元への説明もなく閣議決定するに至った。

しかし御料牧場の土地を収用しても予定の4割弱しか土地が埋まらず、あとの土地を農家への説明も代替地や就業対策もないまま強制収用に踏み切ってしまった事が原因だというのだ。

三里塚周辺は旧国有地を払い下げた上で元満蒙開拓団の引揚者が戦後になって入植し開拓した土地も多く、戦後の生活にようやく一区切りが付けたという矢先に土地が奪われてしまう。その事が三里塚闘争の泥沼の歴史を生んだのである。

当初の闘争では、農民達が国の怠慢に怒り抵抗するために一坪運動を展開したが、そこに極左過激派が介入し、血で血を洗う大規模な抗争に発展する。これまでに6人の死者(機動隊員3、警察官1、活動家1、ボランティア1)と多数の怪我人を出してきた。

航空写真で見たら一目瞭然だが、道路からすぐ目の前がもう成田空港の滑走路になっていて、滑走路から駐機場に行き来する航空機がひっきりなしに通りがかるような場所である。

常にジェットエンジンの音が耳を劈き、もしも日常生活を送ろうものにはあまりにもきつい状態だ。こんな場所に本当に農民や過激派が暮らしているのだろうか。想像を絶する。

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