JR浜松町駅前から東海道、国道15号第一京浜を南に向かうと金杉橋がある。今の住所で言う所の港区浜松町二丁目付近。明治時代に生まれたと言われる東京三大スラムのうちの一つがこの土地にあった。当時は「芝新網町」という地名で、四谷の鮫河橋、上野の下谷万年町と並ぶ指折りの貧民窟だったと言われる。
いま訪れてもどこがどう貧民窟だったのかさっぱり分からない訳で、おおむねオフィス街として認識されているエリアだ。
かつての芝新網町は参拝者で賑わう増上寺から外れた場所にあり「願人坊主」と呼ばれる乞食の僧侶がたむろし、「ぐれ宿」と呼ばれる浮浪者や乞食を対象とした木賃宿、今で言う所の「ドヤ」が密集していた街だそうだ。
今でも首都高の高架が遮る金杉橋の下を流れる渋谷川下流の古川を眺めると、かつての江戸前の情緒を残すような屋形船がずらりと停泊している光景を拝む事が出来る。
実はJR線の車窓からちらりと見える訳であるが、首都高の高架が川の上に被さっていて暗いというのもあるので注意深く観察しないと気付かない。実際に金杉橋の上から見ないとこのような風景があるとは想像しがたいだろうな。
上流側を見てみるとこっちは屋形船ではなく漁船のような小船が沢山並んでいる。まさかここから漁に出ていく訳ではないとは思うが、高速道路に蓋をされるような形で江戸前の庶民の暮らしが今なお守られているように見える。
屋形船が橋の真下にも止まっている。以前ボヤ騒ぎでもあったのか知らんが「タバコ捨てないで」と注意書きの看板が3ヶ所も置かれていた。
こうした屋形船が夜ともなれば芝浦とお台場の間の海上に明かりを灯して客商売に励んでいる。
金杉橋のたもとに昔の町名を記した案内板があるのでだいたいどこらへんが「芝新網町」だったかというのはこれを見ると一目で分かる。だがもちろん明治時代にそこが貧民窟だったなんて一言も書かれていない訳だ。町の中央にあった掘割を境に「新網町北側」「新網町南側」と分かれていたようだ。
浜松町駅前の世界貿易センタービルの南側一帯が旧「芝新網町」という事だったので、いま味気ないオフィス街と化しているこの辺りがそうだったはずだ。今では貧民窟の面影はなく、金杉橋の近くに屋形船を並べる船宿が川沿いに何軒も店を構えている。
殆どが無機質なオフィスビルか雑居ビルとなっている界隈で唯一「新網町」の時代から残っていると思われる小さなお稲荷さんがかつての町のど真ん中に鎮座している。
讃岐稲荷神社、小白稲荷神社の二つの鳥居があるこの神社、明治維新前は讃岐の高松藩の大名屋敷だった。昔はこの神社のあたりに掘割があって町を二分していた。
古川を背に並ぶ船宿の数々を見に行く事にする。古い地図では「湊町」になっており、こちらは新網町ではない。今でも船宿が古川の両岸に5~6軒くらいは現役で営業しているようで、ここいら付近だけが唯一昔の風情を残しているようだ。
船宿「竹内」の横に入ると奥に古びた宿と小さな鳥居が置かれた祠が残っていた。古川を挟んだ向かいにはイマドキのいかにもな東京的風景の豪華タワーマンションが迫る。極端な新旧対比。
船宿が並ぶ道筋をJR線のガード下に向けて進む。一軒だけ残る年季の入った居酒屋「港町十三番地」。確かに浜松町二丁目十三番地だった。
山手線や京浜東北線、それに東海道線やら新幹線までひっきりなしに往来するJRのガード下を潜ればそこは東芝本社などがある大規模オフィス街。ガード下にはスーツ姿のサラリーマンが行き来する。
ガード下の傍らにはいわくありげな古い地蔵が残る。ささやかに花束と供え物が置かれていた。土地を見守るかのようにこの場に佇む。
ここを通り過ぎるサラリーマン達もまさかここがスラムだったなんて想像だに出来ないだろう。百年経つと街はたいそう変わってしまうものである。
浜松町二丁目と芝浦のオフィス街を繋ぐガード下に潜る。かなり低く圧迫感の激しい天井。土台が老朽化しているせいかそこからさらに鉄筋で補強しているため、さらに天井が低くなっていた。このガード下にも昔は乞食とか居たんでしょうかね。やっぱり想像がつかんが。
参考記事
屋形船はしや発祥の地 浜松町2丁目