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勝どきドキドキ探検隊 (1) 勝鬨橋を渡れば

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築地市場や本願寺などがある築地四丁目交差点から晴海通りを進むと、隅田川に架かる「勝鬨橋」に差し掛かる。

隅田川に架かる数々の橋の中でも勝鬨橋の存在はその形状の珍しさからも特筆すべき橋の一つである。昭和15(1940)年6月に橋が完成した当時は、船舶の通行が多いという隅田川の事情があって、橋の中央が開閉可能な可動橋になっていた。



橋の名前の「勝鬨」は、戦で勝利を収めた時に挙げる雄叫びを意味する言葉で、勿論現在に至る「中央区勝どき」の地名の由来となっているが、日露戦争における旅順陥落の勝利を記念して開設された、隅田川を跨いで月島と築地の海幸橋を結ぶ「勝鬨の渡し」が元であると言われている。

勝鬨橋の建造時も日中戦争の最中で、当時の日本の技術のみで作られた橋であることがアピールされている。皇紀2600年を記念する国際博覧会(日中戦争の激化で中止される)が月島で行われる予定だった事に合わせて国力を内外に示す目的もあったと言われる。

勝鬨橋の可動部分は、隅田川を通る船舶の減少と自動車の交通量増加で昭和40年頃には殆ど使われなくなり、昭和45(1970)年11月以降、過去40年間開かれていない。既に開閉する為に必要な電力も供給されておらず、かつての可動橋の名残りは橋の中央部に置かれた信号機と監視所のみに留まっている。

フツーの信号機が橋のど真ん中に置かれているので、知らずに見たら「何だコレは?」と反応してしまいそうになる。勝どき住民にとって勝鬨橋はシンボルマークのような存在で、大江戸線開通前までは孤島状態だった勝どきへの重要なアクセス経路だった。

ここが勝鬨橋の中心部分。昔はここからパカっと両側に橋が開いていたのだ。橋が架けられた当初は1日5回、1回につきおよそ20分間開いていたそうだ。
戦後の一時期は橋の上を路面電車が走っていた時期もあったというが、現在はその面影を見られるものはない。
再度、勝鬨橋を開閉可能な状態に修復しようという住民運動もあるそうだが、修復費用が高額な事もあって計画は進んでいない。

勝鬨橋の上からは築地市場と背後の汐留再開発地区の超高層ビル群を望む事ができる。

橋を渡って勝どきに入ると、そこはタワーマンションの乱立っぷりが物凄い事になっている。東京ベイエリアにおけるタワーマンションの隆盛はバブル崩壊以降の2000年代から激化しているが、その中でも豊洲、お台場、東雲、勝どき、佃といった昔はしけた倉庫街でしかなかった街が瞬く間に高級住宅街と化したのである。

中でも大江戸線が開通するまで鉄道空白地帯だった勝どきには、各デベロッパーが競い合うように超高層マンションを建てて、異様な光景を作り出している。
今でもその勢いが止まらず、工事中のマンションが各所に点在する。

大江戸線で六本木や新宿、上野に出られる利便性に加え、銀座が徒歩圏になるという、ある種の成金セレブに魅力的な立地が勝どきを高級マンションだらけの街に急激に変えようとしているのだ。

だが元々の勝どきはと言えば、取り壊し寸前の都営住宅が物語るように、倉庫街と湾岸工業地帯に勤めるブルーカラー層が多く住んでいるだけの寂れた下町でしかなかった場所だ。
だがそんな過去も圧倒的な開発の前にひれ伏してしまう。勝どきの街ではある意味恐ろしい光景が展開されている。

しかしそんな中でも昔ながらのベタな下町風景がしぶとく残っている。
東京DEEP案内取材班は、下町とセレブタウンがせめぎ合う両極端的な街「勝どき」の全貌を調べるべく、舐め回るように街中を歩き回る事にした。


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東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
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