流鉄流山線で行く下総流山の旅 (3) 閻魔堂・遊女の墓

マイナーローカル鉄道・流鉄流山線に乗って流山を訪れた。東京通勤圏のはずなのに、地方の田舎町にひょっこりやってきたかのような錯覚に陥る事請け合いの、小さな旅。
新選組ネタだけで帰ってしまうのもちょっと寂しいのでもう少し散策してみる。
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新選組陣屋跡のすぐ近くには閻魔堂がある。安永5(1776)年に作られた閻魔木像の他、江戸時代の義賊である金子市之丞、遊女である三千歳の墓があると記された看板がある。閻魔様はともかく義賊と遊女の墓というのが非常にそそられる。入ってみよう。


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閻魔堂の敷地は寺と呼ぶにも少し微妙な風情である。中央には古い井戸があり、奥には墓地が広がっている。玄関を入って右手に、閻魔木像が鎮座するお堂がある。
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正面にはいくつか古い祠が置かれているが、これらが何を祀っているかは今一つ分からない。
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これが閻魔堂…とは言っても見た目にはさっぱり人の家でしかない。今立っている場所もよく見ればごく普通の民家の庭のようだ。かなり不思議な場所だ。
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肝心の閻魔木像は民家の縁側から顔を覗いた部屋の中に鎮座しているのだ。
人ん家の居間に地獄の王が座っているのだ。傍から見るとかなりシュールである。
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義賊と遊女の墓は閻魔木像の正面に置かれている。
金子市之丞は講談の天保六花撰で知られる、流山の酒造家の一人息子。「ビン小僧の金市」と呼ばれた義賊で、金持ちの屋敷に押入り盗みを働き、貧しい農民に金をばら撒いたとされる。そんな金市が入れ込んでいたのが遊女の三千歳だった。
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金市が捕らえられて処刑された後、彼を慕う村人が三千歳の墓を隣に置いて今に続いている。三千歳の墓に記された戒名には「遊」の文字がある。遊女で六文字の戒名は立派なものである。
金子市之丞ではなく片岡直太郎と三千歳が恋仲であったという天保六花撰の筋書きとは違うようだが、創作が加えられたかも知れないしよくわからない。
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閻魔堂を離れて再び流山駅前に戻る。流山駅から万上味醂工場に向けて引込線の跡が伸びているのが今でも分かる。流山線がかつてみりん輸送を担っていた事を物語る。
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引込線は流山街道を隔てて万上味醂工場へ続く。万上味醂もキッコーマンの傘下。全国のスーパーでフツーに販売されている「マンジョウ本みりん」がここ流山の工場で作られているのである。
町民の出資で作られた流山線も、万上味醂の堀切家、天晴味醂の秋元家の財力が無ければ成し得なかったと言われる。流山線はある意味「みりん鉄道」なのだ。
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そんなみりん工場の脇をかすめて江戸川河川敷へ向かう。
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流山広小路の外れから江戸川河川敷の堤防が見えてくる。相変わらず田舎臭い風景が続くが、川向かいは埼玉県三郷市、さらに少し下流に行くと東京都葛飾区である。
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道すがら見かけた万上味醂の看板。まさかここ流山で生まれたものとは思わなかった。
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堤防の上に登るとみりん工場の全貌がよく見える。すっかり外食が定着して家で料理を作る習慣が失われつつある現代でも、みりん作りは絶え間なく続けられているのである。
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目の前の江戸川は千葉県と埼玉県の県境。東京通勤圏とはとても思えない広大な関東平野が続いている。1キロ程下流に武蔵野線鉄橋と渋滞の名所・流山橋がある。

千葉県流山市
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