東京を代表する巨大ドヤ街「山谷」の歩き方 (2010年)

台東区

大阪・西成の「釜ヶ崎」と並んで日本を代表する日雇い労働者の街、山谷。東京DEEP案内ではこの街を度々訪問しては街の様子を眺めてきた。

山谷の歴史は江戸時代より始まる。当時江戸の外れにあったこの土地に、都心から退けられてきた吉原遊郭や投げ込み寺(浄閑寺)、小塚原刑場などといった今どきで言う所の「嫌悪施設」が集められ、その流れで日光街道に沿ったこの土地にも最下層の木賃宿も集められた。

それが戦後の高度経済成長期に入り地方からの労働者が大量に流入、現在のような「ドヤ街」へと変貌した。

現在は住居表示制度により「山谷」という地名は存在しない。台東区日本堤、清川、東浅草、橋場、荒川区南千住に跨る区域に簡易宿泊所が密集するドヤ街が形成されている。

最寄り駅は南千住駅。いつの間にか大規模マンション街と化し何も知らないリア充ファミリーが大挙する浮ついた街並みに変わった汐入地区とは打って変わって、常磐線を跨ぐ歩道橋を渡った先には相変わらず労働者の街が広がっている。

南千住駅前の日比谷線ガード下にも常に山谷の労働者団体による張り紙や、誰が書いたか分からない謎の落書きが見られる。明らかにシャブ中やキ◯ガイが街に溢れる西成のような過激さはないが、それでもこの場所が普通の街ではない事を物語る。

いつぞやの壁の落書きには

「泪橋を渡ってごらん 交番には暴力団が座っている」

警察に対するあてつけなのか単なる私怨なのか定かではない。

南千住駅前の歩道橋を渡り山谷に入るとコツ通りは「吉野通り」に名前を変える。もとは山谷通りと呼ばれていたものだが、どうも「山谷」の地名を消したい思惑が動いているように思えてならない。

常磐線を跨ぐ歩道橋を降りたら、もうそこは山谷のテリトリー。

道沿いには朝っぱらから定食と酒を出す大衆食堂がちらほらと現れる。ドヤ街の朝はとても早い。朝8時9時を過ぎると「仕事にあぶれた」オッサン連中がふらふら歩き回ってこういう店で酒を食らっている。

吉野通りに沿って歩く。すれ違うのは半分くらいが労働者風のオッサンばかり。通りに沿って並ぶ店もどこかしらくすんだ感じが否めないが、寂れた下町という風情が漂うだけで、西成のようなマッドタウンっぷりを想像して来ると、ちょっと面食らう。

あまつさえ西成釜ヶ崎では決して見かける事のない普通の綺麗な新築マンションまで建っている始末。山谷がヤバイというのは昔の話なのだ。日雇い労働者の街は時代の波に呑まれ、福祉の街、バックパッカーの街に変わりつつある。

だがマンションの一室のバルコニーからお馴染みの巨大三色旗がはためいているのを見るとやっぱりそうかそうかと思ってしまう訳だが。

南千住駅から約300メートル歩いた所で山谷の泪橋交差点に辿り着く。吉野通りと明治通りが交差していて交通量も多い。明治通りを挟んで北側が荒川区、南側が台東区となる。

泪橋の地名は小塚原刑場の存在に由来する。交差点の近くの路上に荒川区教育委員会による説明板が置かれている。小塚原刑場に赴く囚人が知人達と現世の別れに涙を流した事から「泪橋」と。

現在明治通りとなっている場所にはかつて思川という小さな川があり、泪橋はそこに掛かっていた。ちなみに品川区にある鈴ヶ森刑場跡に近い立会川にも同じ名前の「泪橋」と呼ばれていた橋がある(現在の正式名称は浜川橋)。

早朝の泪橋交差点を訪れると出勤間際の労働者のオッサンの群れを見る事が出来る。まだまだ山谷が寄せ場として機能している事を感じさせられる。山谷で得られる仕事の多くもやはり土木建設関連の「土方仕事」がメイン。

しかし山谷は既に労働者の街というよりも「バックパッカーの街」という性格が年々強まりつつあるようで、外国人バックパッカー向けの宿泊施設の看板が見られたり、実際に外国人旅行者の姿がちらほら見かけられたりする。

まるっきり日雇い労働者を相手にしていなさそうなコンクリート打ちっぱなしのやたらスタイリッシュな外観のホテルまで現れだしたのが最近の山谷ドヤ事情。これからこの街はどうなっていくのだろう。

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