新宿、八王子、横浜の3つの都市の中継地点に位置する東京なのか神奈川なのかよくわからない「町田」の駅周辺の繁華街の中でも、見逃せないのが何と言っても「仲見世商店街」の存在だろう。
駅前から伸びるターミナルロードの横手から旧町田街道の手前までのおよそ100メートル足らず、道幅2メートル足らずの空間にひしめく魔界のような空間、それが仲見世商店街だ。
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新宿、八王子、横浜の3つの都市の中継地点に位置する東京なのか神奈川なのかよくわからない「町田」の駅周辺の繁華街の中でも、見逃せないのが何と言っても「仲見世商店街」の存在だろう。
駅前から伸びるターミナルロードの横手から旧町田街道の手前までのおよそ100メートル足らず、道幅2メートル足らずの空間にひしめく魔界のような空間、それが仲見世商店街だ。
町田駅前は圧倒的に北口ばかりが発展している訳だが、特に繁華街として賑やかなのは駅の東側一帯に広がる商店街だ。
日が暮れる頃には都心から帰ってきたサラリーマンや家族連れ、学生や地元のヤンキーどもが街に繰り出し、その混雑っぷりはあたかも渋谷や新宿あたりとさほど違いがない程だ。
誰が言ったか「西の渋谷」だなんて一部では呼ばれているそうだがそれは冗談だろう。
戦後から裏風俗街として名を挙げてきた町田駅南口の通称「田んぼ」の一帯。それは長年に及ぶ地域住民の戦いによって、つい5年ばかり前に売春街の「壊滅」という決着が着いたばかりだ。
夜毎ピンク色の明かりが照らすバラック小屋が密集する中で繰り返されていた日々、売春街を取りまとめる暴力団同士の抗争...この土地に根付いた闇はすぐに晴れる事はない。
町田駅南口の目の前を流れる境川はその名の通り東京都と神奈川県の都県境に沿っている(一部県境がはみ出ている地域が残っているが)この川に沿って、少し町田の街中を探索してみようと思う。
町田を訪れたら是非見てみたい光景があった。
すこぶる発展しまくっている北口とは真逆の存在である「町田駅南口」である。
JR横浜線の線路で南北が分断されていることもあり、北口の喧騒がまるで信じられないような裏寂れた風景を見せる南口。辛うじて南口唯一の商業施設であるヨドバシカメラの店舗が人の流れを生じさせているが、それ以外は見捨てられたような風景が広がっている。
新宿から小田急線の快速急行に乗っておよそ30分、東京と横浜の双方にアクセスできるベッドタウンとして発展する人口42万人の中堅都市「町田市」にやってきた。
小田急線とJR横浜線が乗り入れる町田の街の中心「町田駅」。東京都西部では八王子駅前と肩を並べる大型繁華街となっていて、駅前に広がる大きなペデストリアンデッキは小田急とJRの乗換通路の他、各デパートや商業施設に直結していて、かなり都会っぽさを放っているのだ。
終わりのない不況が続く中、今どきの家庭は少しでも家計の負担を減らそうと家庭菜園をやってみたりと随分「農」への関心が高まっているとかいないとか。
しかし人によっては栽培してはイケナイ葉っぱを儲かるからと植えようとするDQNまでいたりして警察の御用となる事が多い。
だが、そんなヤバイ葉っぱの現物を始め、何らかの薬理作用があり医療の場にも使われる「薬用植物」のみを専門的に扱う植物園がある。
「東京都薬用植物園」だ。
日本のハンセン病隔離政策の象徴である全国13ヶ所の国立療養所。隔離の歴史からおよそ100年を迎え、ハンセン病そのものは治療可能な病となりその存在自体も公に知られるものではなくなった。
患者が背負ってきた病苦と差別による苦しみ、隔離政策による負の歴史は時代とともに忘らさられようとしているが、近い将来、高齢化したハンセン病患者が居なくなる時代へ向けて、元患者や支援者の手によって多磨全生園の園内各所の建築物を保存・再建する動きがある。
「人権の森構想」によって再建された「山吹舎」の建物が園内南西側の一角にぽつんと置かれている。もともとは昭和3(1928)年に建てられた男子軽症者の独身寮である。
東京都東村山市と清瀬市にまたがる通称「病院街」。感染病患者を隔離する目的で郊外の雑木林を開拓して作られた広大な敷地に結核・ハンセン病患者の療養所が数多く建設された。医療技術が進歩しどちらの病も治療可能になり、隔離施設の存在意義も無くなった今でも病院街は当時のまま残っている。
東京都心から最も近いハンセン病療養所の一つ「多磨全生園」を訪れた日、園内では屋台や踊りなどのイベント「全生園まつり」が行われていた最中だった。
園内中央の通路に沢山屋台が並んでいる中で、どうも聞き慣れた太鼓の音が聞こえてくる。
今からちょうど百年前、日本におけるハンセン病患者隔離施設として初めて全国五ケ所に整備されたうちの一つ「多磨全生園」にやってきた。
らい予防法が廃止され、患者を隔離する根拠もなくなった後も、療養所の中で暮らしている元患者はおよそ300人程度居るそうだ。
いずれも高齢で、入所時に家族や親類、職場など全ての人間関係を断たれてしまってから長期間が経過してしまっている後では、身寄りもない人間をそう簡単に受け入れられる訳もなく、行き場もないというわけだ。
全生園の敷地内に古びた神社がある。永代(ながよ)神社という。
昭和9(1934)年に当時の入所者達の手で作られた神社である。
入所者は身柄、就職、婚姻など様々な面で不自由を受けたが、信仰の自由だけは保たれていた。
結核患者隔離収容施設を人里離れた郊外に造成する目的で昭和初期に作られて以来、日本屈指の病院密集地として知られる東京都清瀬市の「病院街」に隣接する東村山市には、日本で13ヶ所現存しているハンセン病療養所の一つ「多磨全生園」が今も残っている。
多磨全生園の敷地の一角にある「国立感染症研究所・ハンセン病研究センター」。
かつてハンセン病も結核と同じ不治の病として恐れられ、感染病であるとともに皮膚組織が損傷する症状から起こる見た目への偏見・差別から数々の不幸を招いた歴史を持つ。
現在では結核もハンセン病も治療法が確立され死を恐れる程の病ではなくなった。
しかし多磨全生園には今も社会から断絶されたまま行く場所もないと、その場所に住み続ける元患者が暮らし続けている。