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吉原遊郭の総鎮守「吉原神社」と遊女達の不幸な歴史を留める「吉原弁財天」

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旧吉原遊郭では大門以外から遊郭への出入りは、鷲神社の酉の市といった特別な時期以外は認められていなかったが、今となってはどこからでも出入りできる。仲之町通りを突っ切って郭の外との境目に「水道尻(すいどじり・みとじり)」と呼ばれる一角があり、その傍らには現在も吉原神社がある。

台東区 三ノ輪

吉原神社は吉原遊郭400年の歴史を見守るここ吉原の総鎮守である。吉原神社のホームページによると明治5(1872)年に吉原遊郭内にあった地主神の玄徳稲荷社と遊郭の四隅にあった明石稲荷社、開運稲荷社、榎本稲荷社、九郎助稲荷社の五社を合祀して創建された神社である。

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当初は見返り柳の向かい辺りにあった玄徳稲荷社旧地に鎮座していた社殿が関東大震災で焼失、その後現在地である水道尻付近に移転し、昭和9(1934)年に新社殿と近くの花園池に鎮座する吉原弁財天を合祀している。さらに現在の吉原神社の社殿は東京大空襲で焼失後、昭和43(1968)年に建設されたものである。つまり当地は震災と戦災で二度焼失したのだ。

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吉原遊郭時代には花魁も参拝していたと古書にも記されているという吉原神社。昭和33(1958)年の売防法施行後、吉原遊郭は340年の歴史に幕を閉じているが、街の役割は今なお全く変わる事がない。今でも吉原勤務の女性達の厚い信仰を受けている。吉原弁財天の弁天様は「浅草七福神」の一柱に数えられている。

普段は物静かな神社ではあるが、毎年11月に近所の鷲神社で酉の市が開かれている時には吉原神社の前まで屋台がずらりと立ち並び凄まじい活気に包まれる。

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境内に入って右側には浅草田原町出身の文人・久保田万太郎氏の句碑が置かれている。もともとは吉原内にあった料亭松葉屋(当初は引手茶屋として開業)に置かれていたものが料亭取り壊しに伴ない吉原神社内に移されてきた。

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江戸時代からの吉原遊郭の華となっていた花魁道中は、戦後の売防法施行で一時期途絶えそうになっていたものの久保田氏の助言により料亭松葉屋が「花魁ショー」を連日主催、「はとバス」観光コースの一つにもなる程の活況を呈していたが、1998年の松葉屋の廃業により途絶える。

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その後2003年に地元町内会の主催で「花魁道中」が復活し、それ以降毎年4月の「一葉桜まつり」の一環で開催され、吉原遊郭の往時の文化に触れる事が出来る。吉原は単に「男と女がそういう事をする場所」としての役割には留まらず、江戸時代より最先端の流行と文化を発信してきた。

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拝殿横には年代ごとに詳しく描かれた「吉原今昔図」が掲示されている。これを読めば昔から吉原遊郭内の区画が全く変わっていない事と、妓楼や街並みの移り変わりを簡単に把握する事が出来る。じっくり見たい場合は地図を買う事も出来るが、一部2500円だ。

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吉原神社のすぐ隣には、2009年に新築された台東病院の建物がデデーンとそびえ立っている。もとは東京都立台東病院だったが、1996年に休止、現在は台東区立台東病院となっている。売防法施行直後の昭和34(1959)年に開設された当時は貧困層の母子家庭を対象とした医療に力を入れていたと言われる。さらに前身は吉原遊郭内の性病専門病院。昔からの住民には「吉原病院」の方が通りが良いそうだ。

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台東病院の前から、再び道が不自然に蛇行している。水道尻を境に遊郭の外に出るが、こちら側は本来の出入口ではなかった。道なりに進むと千束五叉路で国際通りと合流し浅草方面へ至る。

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吉原神社から少し離れた所に、同じ吉原神社の境内地となっている「吉原弁財天」が鎮座している。ここには吉原遊郭の悲劇の歴史を残す史跡が残されている。

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境内入口に近いところに見上げる程に大きな築山があり、その上に観音像が鎮座している。築山には「大震火災殃死者追悼記念碑」と書かれたプレートが嵌めこまれている。これは大正12(1923)年に東京を襲った関東大震災によって、逃げ場を失った遊女490人が犠牲となり、後の大正15(1926)年に遊女及び遊郭関係者の慰霊を目的に設置されたものだ。

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さらに、その慰霊碑の築山を裏側に回ると、今度は戦災で犠牲になった遊女や遊郭関係者を祀る「戦災無縁塔」が鎮座している。この慰霊碑が無縁塔という所が大きなポイントである。やはり遊郭という特殊な土地の因縁を感じさせる。

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他にも吉原弁財天の境内には様々な慰霊碑やお地蔵様が置かれている。遊郭という土地は絶えず女性の不幸な人生のドラマが繰り返されていた。やはりどう転んでも「苦界」である事に変わりはないのである。

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関東大震災発生時、この吉原遊郭では490人もの遊女が死に、その多くが遊郭に閉じ込められ避難出来ずに、大火に見舞われ逃げ場を失った挙句、当地の弁天池に沈んで溺れ息絶えた。大火が止んだ明くる日、池の一面を無残な姿の遊女達の骸が埋め尽くしていた。その写真も境内には掲示されている。勿論白黒写真だが、壮絶極まりない。

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悲劇の舞台となった弁天池は、昭和34(1959)年に吉原電話局(現在のNTT吉原ビル)の建設工事に伴い埋め立てられた。現在、境内には鯉が泳ぐ小さな池しか見当たらない。遊女の悲惨な最期と吉原が辿った歴史を顧みて、現在も境内の慰霊碑に供え物や線香が絶える事はない。

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観音像の脇を抜けて奥へ入ると「吉原辯財天」と朱色で書かれた石碑とともに鳥居がある。この先にはかつて遊郭関係者の信仰を集め、弁天池の名前の由来になった弁天祠が現在も鎮座している。

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以前は老朽化も激しく相当悲惨な状況となっていた吉原弁財天だが、2012年に地元有志により綺麗に改装され、鳥居には極彩色の派手な銘板が取り付けられ見違えるように生まれ変わった。

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改修された弁天祠の壁には、沢山の蓮の花に囲まれた弁天様のド派手なイラストも登場。まるでタイかどっか東南アジアの寺みたいなノリになっちゃってますが、吉原遊郭に生きた先人も綺麗になった神社を喜んでおられる事だろう。

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以前の吉原弁財天弁天祠(※2008年撮影)

以前は社殿の扉が固く封鎖された上にフェンスで周囲を塞がれ、まるで忌まわしいものを封じ込めるような姿で残っていたる弁天祠だったが…

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なんということでしょう!見るも鮮やかな遊郭の意匠を施した新しい社殿に生まれ変わりましたではありませんか。というビフォーアフターが見られます。以前のような陰気臭さも薄れ、最近ではちょっと普通の東京観光に飽きた、ダークツーリズムに興味のある外国人観光客も当地を訪問しているようです。


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東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
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