【基地の街・朝霞】朝霞市にあった米軍基地「キャンプ・ドレイク」の痕跡と廃れた盛り場

朝霞市

池袋から東武東上線に乗って朝霞までやってきた。キャンプ・ドレイク」跡地が返還後も長らく手付かずのままになっていたりと、色々ミリタリー臭の濃ゆい街である。

朝霞の地名は昭和初期に東京の駒沢から移転した「東京ゴルフ倶楽部」に起因する。当時膝折村という地名だったが、町制施行の際に「膝を折るなどとは縁起の悪い地名でよろしくない」と改称する事になり、東京ゴルフ倶楽部の名誉会長であった皇族の朝香宮鳩彦王の名前から「朝香」を取り、そのままだと畏れ多いとの事で一文字変えて「朝霞」とした。

そんなおめでたい地名な訳であるが、その東京ゴルフ倶楽部の敷地が後にキャンプ・ドレイクとなったという深い因縁がある。

とはいえ駅を降りると典型的なベッドタウンでしかないようにも見える朝霞駅前の風景。最近駅舎がリニューアルしたようで、妙に小洒落た外観となっている。

今回は朝霞市街地に残る米軍基地「キャンプ・ドレイク」の痕跡を見るべくこの地を訪れた。

近年行われた再開発事業ですっかり綺麗になったという朝霞駅南口ロータリーの広場に来るとまず目につくのが、何やら花束が沢山置かれたこの石碑。

朝霞出身(幼少期から死去するまでずっと住んでいた)の歌手である本田美奈子の記念碑だった。若くして白血病を患い命を落とした事で知られる。2005年死去。

記念碑の前に手向けられた花束は熱烈なファンによるものだった。

その傍らには何やらスイッチのついたポールがある。「使用可能時間」などと書かれたテプラが張られているので、明らかにスイッチっぽい。試しに押してみたら、記念碑に仕込まれたスピーカーから本田美奈子の歌声が流れてきた。何気に凝った造りになっているな。

歌声が流れる駅前ロータリーを見渡すと、のっけからパチンコ屋がデデーンと店を構えていたりとやっぱり東上線の街らしい印象。

キャンプ・ドレイクの痕跡の一つである私娼窟の跡が朝霞駅から南に行った栄町四丁目の南栄通りに今も残っている。パチンコ玉三郎の先にある道路をひたすら真っ直ぐ進むと辿り着くはずだ。

駅からの道中は何のツッコミどころもない普通の住宅地と化してしまっている。途中で突然開けた池が現れるので様子を見る事に。

池の傍らにある案内看板でこの池が「広沢の池」という事と、市指定史跡になっている事が分かった。湧き水が溜め池になっているらしい。とはいえコンクリート護岸と一般家屋に囲まれているだけで情緒もへったくれもない。池の奥には小さな観音様が奉られていた。

かつてはこの広沢の池から西側の公園や学校になっている一帯、それに朝霞駐屯地の一部が米軍基地「キャンプ・ドレイク」(ノースキャンプ)として、1976年に大部分が返還されるまで使われていた。

ちょうど足元に航空写真が載っているのでここでおおまかな位置関係を把握出来る。この写真だと南北ほぼ逆になっているので注意。

今も元米軍基地の敷地は大半が放置されたまま、鬱蒼とした森に姿を変えてしまっているのだ。街のど真ん中にこんなものが残っているとは…

広沢の池からさらに栄町四丁目交差点の方へ進むと、朝霞第四中学校向かいに大型マンションが現れる。気づかなければ何の変哲もないマンションでそのまま素通りしてしまいそうになるが、かつてこの土地には米兵を相手にしたキャバレー「アメリカン・リージョンクラブ」があった。

キャバレーの他にもクラブや映画館などもあり、アメリカの独立記念日である7月4日には花火まで上がっていたとか。当時は「日本の上海」もしくは「埼玉の上海」とまで言われていた程である、治安対策の為に終戦直後の昭和22(1947)年に朝霞警察署が新設されるに至る。

またフランク永井など数々の歌手がこの土地で歌っていた事もあり、朝霞は日本におけるジャズ文化普及の地でもある。

この周辺が米軍基地返還の時までずっと米兵たちの羽目を外す大歓楽街であった事を、おそらく当の住人も殆ど覚えていないだろう。ましてやよそ者の我々にはそんな過去の片鱗を知る由もない。

ただこの先の栄町四丁目交差点付近まで行くと、当時の栄華を窺わせるバーの建物がわずかに残っている。古ぼけたコンクリート建築のオンボロパブの数々。その多くは廃墟同然に打ち捨てられているかのようだ。かつてキャンプ・ドレイクが現役だった頃、この辺で羽目を外して回る米兵達を相手にしていたのは「パンパンガール」と呼ばれる街娼達であったという。

煤けてしまってはいるが、うっすらとピンク色の塗料が外壁に残るスナックの廃墟を見ると、壁に書かれた英語の跡がくっきり見えている。「Play Mate」…プレイメイト?恐らく「M」が入るであろう一文字分だけが消えている。

T字路から東西に伸びる道と並行してすぐ南側に国道254号川越街道が走っている。そこからさらに南側一帯が朝霞駐屯地。キャンプ・ドレイクのサウスキャンプに使われていたが、昭和35(1960)年に陸上自衛隊が駐屯し、後に敷地も返還されて現在に至る。

栄町四丁目交差点付近に不思議と古い建物がごっそり集中している訳であるが、手前のセブンイレブンの辺りから私娼窟だったエリアが始まる。当時はバーやキャバレーがずらりと並んでいたと言われる場所だ。

ただの民家に変わった場所もあれば、まるで商売っ気のない古びた自転車屋もある。もう老い先短いからと建物が無言の自己主張でもしているかのようだ。

「中華・定食 栄楽」と書かれた店舗…ここも恐らく営業していないだろう、その隣のセブンイレブンが建っている辺りも昔は怪しげなバーがあったとか。

キャンプ・ドレイクは朝鮮戦争(1950-1953年)の時にアメリカ陸軍の中心基地で、その頃には朝霞では1万5千人~2万人もの兵士が集まり前線に飛び立ったと言われる。その当時の繁華街の様子は凄まじいものがあったそうだ。

「栄楽」の角から路地裏へ伸びる道がこっそりと残っている。野良猫ではないがこういう路地裏がやたら気になるので少し入ってみた。

向かいのスナック跡の建物側面。壁に不自然な穴が開いているので気になったが昔どう使われていたのかこれだけで想像するのは難しい。

すると路地裏の奥からはさも年季の入りまくったボロ家がトタンが打ち付けられただけの塀から顔を覗かせている。ここも恐らく人が住んでいる様子がなさそう。

その向かいの空き地から、古びたスナック街の建物を裏側から眺める事が出来る。当時の歓楽街の名残りらしきものを探すのは、やはり難しいようだ。

次に気になってしょうがないのが、栄町四丁目交差点のT字路のどん突きにある、この怪しげな個人商店。薄汚れたテント看板には「南栄ストアー 氷卸 丸登商店」の文字が見えるが、文字が消された跡もあるわ、手書きで「ゲーム」と上書きされているわ、色々とカオスっぷりを見せている。

店の前に近づくと、足元に置いてある看板がやたら電波チックである。かき氷とゲームの店?近所の子供が遊びに来そうな街の駄菓子屋的なイメージの店に見えるが、店内には地元の爺さん達がたむろしていた。

それに加えて店の半分をシャッターが降りたままになっている所に、この黄色い貼紙のオンパレード。芸術的センスすら垣間見える素晴らしさだ。ゲームと氷だけでなく、どうやらワンルームマンションも経営しているらしい。

自販機も容赦なく「氷」「ゲーム」云々の文字がペイントされまくっている。

実はこのお店、南栄通りが米兵相手の繁華街だった頃に、近くのキャバレー・バー全店舗に氷を卸していたという魚屋「魚太」の名残りである。同じ店主がやっているのかどうかは不明だが、殆どもぬけの殻になった今では街の生き字引的存在かも知れない。

…どうやら店主が経営するワンルームマンションはこの店の隣だったらしい。

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