東京の空の玄関口、羽田空港の足元は都内とは思えぬ鄙びた漁村だった!「羽田」界隈を歩く 

大田区

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多摩川の最下流、羽田に残る漁村の光景を一通り眺めて、突端の海上に置かれた祠を横目にすると、そこは多摩川に海老取川が合流する地点となる。今も引き潮時には広大な干拓が姿を現す、とても東京23区とは思えない風景を見せる羽田浦の先端部分には羽田の漁業にまつわる歴史が書かれた石碑が置かれている。

羽田の成り立ちは平安時代後期の平治年間にまで遡り、この地に流された7人の落人が住み着いた事が始まりだと言う。街全体がなんだか陰鬱なのは、落人村だったという羽田の生い立ちと、空港などの開発により生活が翻弄されてきた暗い歴史からもたらされるのだろうか。

羽田漁港の突端部分には暇そうな釣り人達が寛いでいる。場所柄だけにホームレスのオッサンが何気に自給自足していそうな感じもする。多摩川がもたらす自然の恵みは素晴らしい。

こんな場所だが、実はこの地下には鉄道のトンネルが掘られている。JR東日本と書かれているが、羽田空港にはJRの駅はない。不思議に思ったが、実は東海道貨物線が大井埠頭から川崎方面に伸びている途中にトンネルが掘られているのだ(→詳細

ちなみに旅客化の予定はないらしい。貨物線の運行に支障を来たすのと、JR傘下の東京モノレールに乗客を集約させたい思惑があると言われている。

次は海老取川に沿って進むと空港島との間を結ぶ弁天橋に差し掛かる。弁天橋の名前は先程訪れた玉川弁財天が元であろう。本来はこの橋の先に弁天様が祀られていたのだ。

弁天橋は架け替えられて新しい橋に生まれ変わっている。欄干には羽田の漁民達が日常生活で行っていた海苔漁やそれにまつわる諸作業の様子が描かれたレリーフが掛かっている。

弁天橋を渡るとその先は空港島である。完全に空港の敷地内になっている。ひっきりなしに自家用車やバスが目の前のトンネルを潜って空港内から出入りしている。

空港だけに警備も厳しいし、徒歩でこの先に行けなさそうな雰囲気だが、実はその気になれば徒歩で行き来出来るらしい(→詳細)ここから羽田空港の主要部分まで歩けば小一時間程度掛かるそうだ。よほど物好きでなければ天空橋駅からモノレールか京急を使うのが普通だ。

羽田空港入口の脇には物々しげに存在感を示す大きな赤鳥居がそびえている。旧空港ターミナル駐車場付近にあった穴守稲荷神社の鳥居である。その鳥居の前に、地元民により昔の羽田にまつわる数々の資料が展示されている。

羽田空港の前身となった羽田飛行場が出来たのが昭和6(1931)年。その頃の羽田空港の敷地には京浜電気鉄道の穴守線が通じていて、穴守稲荷神社への参詣路線としてだけでなく潮干狩りや海水浴などで賑わうレジャースポットだったそうだ。羽田鈴木町、江戸見町、穴守町という地名を持つ人口三千人の村だった。

それが終戦直後の1945年9月、羽田空港を接収した米軍の空港拡張計画に基づくGHQの指令を介して村人は48時間以内に荷物をまとめてとっとと出て行け、という「強制移転」の憂き目に遭う。鳥居の前の掲示板には強制移転前の羽田鈴木町、江戸見町、穴守町の地図や生々しい歴史が記されていた。

約三千人の住民は海老取川対岸の親類の家などに移転するなどして、村は消滅するも、穴守稲荷神社の鳥居だけは祟りで工事関係者が何人も死ぬという「伝説」が元で壊されずに残ったというのだ。

穴守稲荷神社の大鳥居はその後空港の拡張で現在地に移転して現在に至る。今では羽田の住民にとって故郷の記憶を留める唯一の生き証人のように大事に守られている鳥居なのだ。そして強制撤去後に羽田神社に合祀されていた穴守稲荷自体も移転先に遷宮し本格的に再建された。

海老取川に沿って、昔の巨大広告看板が骨組みだけ残っている。現在の羽田空港はターミナルが沖合いの埋立地に移転したため、広告効果が薄れた看板は取り外されて骨組みは錆びるに任されている。

広告看板が建つ根元の土地は個人の家の庭先だった。1993年に新国内線ターミナルが出来る前まではこの場所から飛行機の離陸着陸が間近に見られたそうだ。

海老取川沿いの堤防には空港移転前に置かれた「子供達の夢」という未来の旧羽田空港滑走路跡地の姿。残念ながらどれも微妙に違っているようである。

2010年中には新国際線ターミナルが出来て、国内線中心だった羽田空港の役割が大きく変わると言われている。三里塚闘争プロ市民の巣窟で虫食いだらけの成田空港がこれから寂れやしないだろうか。

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