当サイトが毎度の如くアホの一つ覚えのように使う言葉に「戦後のドサクサ」というものがある。これは読んで字の如く、終戦直後の混乱期のドサクサで土地が不法占拠されたり、駅前一等地が在日コリアン資本のパチンコ屋や台湾華僑の雑居ビルなどになったり、はたまた一部の公用地が住宅不足解消に暫定的に簡易住宅が建てられたりという様々な事象をごっちゃにまとめて一つの「便利な言葉」として括ったものである。
そんな「戦後のドサクサ」という言葉がこれほど似合う街は無いな、と常々思うのが新宿のすぐお隣にある「新大久保」だ。この街が国内屈指のコリアタウンとして隆盛を誇るのも、駅の近くに巨大なロッテのチューインガム工場がある(2013年に工場閉鎖)のも、昭和の時代にドヤ街になっていたのも、またバタ屋稼業の人々がガード下の土地を不法占拠していたのも、全てこの言葉を当て嵌めれば納得が行く。今回はその延長線上にある「百人町三丁目」という地域を歩く。
新宿区百人町というと、新大久保駅や大久保駅がある大久保通りに面した一丁目・二丁目あたりを歩く事が多いが、実は駅の北側の高田馬場寄りには三丁目と四丁目がある。新大久保、高田馬場両駅のちょうど中間地点で、そう言えばこの界隈、あまり注目した事が無かった。
江戸時代から戦前まで百人町はずっと軍都でした
百人町の地名の由来は江戸時代、内藤清成率いる江戸幕府鉄砲組百人隊の屋敷があった事に由来しており、JR大久保駅前のガード下にも鉄砲隊の図が描かれているが、この三丁目と四丁目を含め山手線の線路を越えた東側の戸山公園付近までがかつて戸山ヶ原と呼ばれ、明治以降は数多くの陸軍施設が置かれた「軍都」となった。
この一帯が戦時中にモロに空襲の対象となり滅茶苦茶に破壊されてしまった後、終戦を迎え敗戦による困窮に喘いでいた中、焼け出され家や財産を失った裸一貫となった市井の人々の生活をどうにかしようと焼け野原となった戸山ヶ原の陸軍用地の一部に当時の住宅営団によって「越冬住宅」と呼ばれるバラック建ての住宅群が多数建てられた。現在も百人町四丁目や大久保三丁目に高層の都営住宅が立ち並ぶのもその時代の名残りと言えるだろう。
一方で現在、百人町三丁目に属する区域の北半分には不自然に細かい路地で区切られた戸建住宅がびっしりと連なる不思議な一帯が残っている。三丁目の南半分が東京都福祉保健局健康安全研究センター、東京山手メディカルセンターといった大型の建物がざっくりと立ち並ぶのに比べると全くもって別空間である。
なお、この百人町三丁目あたりは戦前、陸軍の科学研究所があり毒ガス・化学兵器の研究もされていたようなオッカナイ場所だったのである。住宅地として如何なものか…という点は戦後の混乱期にいちいち気にもしていられなかったのが現実か。
そんでもって、地図上で百人町三丁目の北側を見てみるとこの通り、明らかに不自然な細かい路地の区切り方である。どうしてこうなった!どうしてこうなった!モヤモヤし過ぎて現地を見ずには居られなくなったのだ。
虫食い土地にポケットパークや区管理地だらけの百人町三丁目
百人町三丁目の「気になる土地」は、先に公開した西戸山の寄せ場(高田馬場ドヤ街とも呼ばれる)の記事にも紹介している西戸山公園のすぐ西側一帯にある。西戸山公園自体が区立西戸山小学校及び中学校を挟んで東西に分かれていて、そのすぐ西隣の「サノ薬局」が角に立つ路地に入ると突然「この先行止まり」の看板が現れる。
一見すると古びた感じがしながらも整然とした住宅地でしかないように思えるが、その先が車の通れない行き止まりだったり、所々住宅が路地の区割りに従わずチグハグに建っている箇所があったりと随分テキトーになっている感じが現地の様子を見ればお分かり頂けるはずだ。
そしてさらに不自然さを感じさせるのが、猫の額程の家一軒分の敷地がそのまま歯抜けになったとしか思えない土地に整備された「新宿区立百人町三丁目ポケットパーク」と称する公園と呼ぶのもどうかと思えるスペースの存在。
百人町三丁目の2~18番地で構成されているこの住宅密集地にかなりの数「ポケットパーク」が点在していて、場所によっては近所の西戸山小学校の四年生生徒が農園に使っていたりと用途も様々である。
各ポケットパーク毎に置かれている、お役所仕事丸出しなお間抜け注意書き看板。「野球、キャッチボール等の球技はできません」とあるが、あまりに狭すぎるのにどこに野球が出来るスペースがあるのだろうか。
そして一部の土地はポケットパークにもならず、新宿区による「区管理地」の看板だけ置かれて更地になっている箇所もあり非常に香ばしい雰囲気が漂っている。つまりこれは何を意味するのだろうか。
しかも一箇所だけに留まらずかなりの数で歯抜け状態となった「区管理地」が存在している事が当地を歩き回ると確認できよう。間違いなく「戦後のドサクサ」としか思えない光景なのだが、何故こうなったかというと、この一帯にかつて「百人町越冬住宅」というバラック住宅が立ち並び、それが民間に払い下げられ宅地化したというのが事情のようだ。
ためしに国土地理院が公開している昭和22(1947)年撮影の航空写真を引っ張り出すと、確かに同じ箇所にバラック建ての住宅っぽいものが並んでいるのが分かる。
ポケットパークがポケストップ
そんな住宅地の西寄りの一画にそこそこ広めの公園とも広場ともつかぬスペースがこしらえられている。中途半端に小綺麗にブロックが敷き詰められて体裁良くしているが、これも「百人町三丁目ポケットパーク」とやらの一つだろうか。ちなみに公園ならさっきの西戸山公園、すぐ南側の百人町ふれあい公園と二つ近接しており、子供の遊び場には困らないはずだ。
この不自然なスペース、そのうち住宅を立ち退かせて一つの大きな公園にするつもりも無さそうだし、遊んでいる子供や親子連れの姿もない代わりにポケモンGOで遊んでいるオッサンが数人居た。どうやら周辺のポケットパーク等が「ポケストップ」に指定され4つも近接しているらしい。
虫食い土地ながらも建っている家は一部を除いては建て替えなども行われ小綺麗な一軒家も多く、全然「戦後」を引きずるような悲壮感も漂っていない。しかしこちらのように滅法昭和なまんまのお宅もある。
仙台の追廻住宅に激しくデジャヴな光景
そのお隣もまた「区管理地」である。ところでこの不自然過ぎる住宅地を歩き回るにつれ思い出した場所がある。仙台市の青葉城近くにある「追廻住宅」(仙台市青葉区川内追廻)だ。
追廻住宅もまた百人町同様、住宅営団により終戦後引揚者などを対象にした住宅が建てられた一帯だが、あそこは長年立ち退き交渉が膠着状態にあって、殆ど歯抜け土地だらけとなった中で共産党ポスターを貼っている家だけが頑なに立ち退き拒否している香ばしい光景が見られた場所だが、仙台市地下鉄東西線の開通前に立ち退きが進み、今ではたったの3軒しか家が無い。
仙台の追廻住宅とは幾分訳が違うものと思われる百人町三丁目の歪な住宅地。区管理地もあれば「道路予定地」と書かれて緑フェンスで覆われた区画も見られる。この一帯にこの先変化が訪れるのかどうか定かではないが、確かにこの土地にも「戦後」は残っているのだ。