松戸駅西口から江戸川堤防に向けて歩いた辺り、坂川に掛かる一平橋を渡った西側一帯、今では鄙びた住宅地になっているだけだが、昔は平潟(ひらかた)と呼ばれ、ここには遊郭があった。江戸時代より宿場町の遊里として栄え、飯盛女を抱える旅籠屋が軒を連ねていたような場所だ。
当然のことながら昭和33(1958)年の売防法施行でその歴史に幕を下ろした訳だが、わずかに面影でもあるものかと思ってやってきた。
まず平潟の氏神様である水神宮(平潟神社)にお参りする。殆ど忘れ去られたような佇まいの古い神社だ。この神社の西側が遊郭だった。
周りは江戸川と坂川、それに遊郭の裏手を流れる樋古根川の3つの川に囲まれ、田圃の真ん中にぽつんとあるような場所だった。吉原のように出入りできる箇所は限られていたという。江戸川の水運で栄えた宿場町の外れにあった。
平潟神社の境内に遊郭時代の名残りが見られる。例えば拝殿の傍らにあるこの古い石の天水桶。
そこには「九十九楼」という妓楼の屋号が記されていた。つまりこの水槽は妓楼からの寄贈品である。この九十九楼というのは同じ宿場町の遊郭があった内藤新宿の資産家内藤新太郎が開いた店とされる(後に「三井家」に名を改める)
その他、狛犬の台座に書かれた寄贈者にも他の妓楼の屋号が刻まれている。
傍らの境内社・秋葉神社。苔むしたオンボロの鳥居に社殿が印象深い。時代に取り残され平潟遊郭の地が忘れ去られてもなお地元民に細々と信仰を受けている。そんな感じであろうか。
平潟神社に隣接する来迎寺(らいこうじ)。平潟神社が遊郭にとっての神頼みの場所であれば、この寺は死した遊女達の投げ込み寺だった。神仏分離までは同じ境内にあり、共に陰鬱な印象が拭えないのは土地が持つ情念の深さ故の事か。ここにも沢山の遊女の墓があるらしいがどれがどれだか分からず引き返した。
そんな平潟神社と来迎寺の前は、なんとも味気ないマンションが立ち並んでいる。松戸駅からも近い場所にあるためか住宅開発が進み、寺と神社を残して遊郭時代の面影はもうない。
江戸川堤防の前に日大歯学部松戸校舎がある。ここがまさしく平潟遊郭の西側大門があった所だ。今は本当に何もない。見に来るだけガッカリするくらいに。
遊郭の面影はてんで残っていない訳だが何故かこんな所に「東葛同胞生活相談総合センター」なる施設があった。地図で見ると東葛朝鮮会館とも。おそらく朝鮮総連系ですかね。戦後のドサクサでやってきたのか何か分からんが赤線地帯と関係あるのか?
この通りがかつての平潟遊郭のメインストリートだった訳だ。30数軒の妓楼がひしめいていたらしい。遊郭廃止後の妓楼の中には司法試験を目指す学生の為の寮「柳仙育英センター」に転用されたものもあったが、それらの建物も全て取り壊されてしまった。
しかし通りの真ん中あたりにやけに巨大な柳の木が残っていて、これは平潟遊郭が現役の頃からのものだろう。この柳の木の向かい側に妓楼「三井家(旧九十九楼)があったそうだが1994年に取り壊されて跡地はマンションになった。
もう柳の木くらいしか見るものがない訳だが、不思議でしょうがないのが柳の下に二台もの幼稚園バスがずっと放置され続けている事。相当長期間棄てられたままになっていて怪しさ満点。
あとは住宅街ばかりで妓楼の一軒すら見当たらないが、レトロな装飾のついた古い街灯が残っているなど、ちょっとした名残りくらいはある。船橋海神遊郭もそうだったが千葉県の遊郭跡は殆ど絶滅寸前だね。
現在は地名も「松戸市松戸」の番地が2千番台になっているこの界隈。行政的には「平潟」の地名は全く使われていない訳だが、アパートの名前とかに「ひらかた」と使われていたりする。
ひらかたで思い出したが、松戸の平潟は同じ読みである大阪の「枚方」とも共通点を感じた。江戸川と淀川の共通点、その上で大阪の枚方も地名の由来が「平潟」。そして何よりも大阪の枚方にも遊郭跡(桜新地)があるのも同じ。
これほどまでの奇妙な符合は偶然なのかはたまた…
最後に旧平潟遊郭の外れにあったと思われる「平潟公園」へ。
「開園昭和34年12月」と書かれている。まさしく売防法施行の昭和33年の翌年だ。
かつてはこの公園があった場所にも色里が栄えていたのだろうが、そんな歴史も何もかも封じ込めて全て壊してしまった。
平潟公園の中は遊具がぽつんとあるだけでだだっ広いが、子供は誰も遊んでいない。
ここが松戸の「ひらかたパーク」。菊人形展とかはやっていないので悪しからず。
参考記事
平潟遊郭
元平潟遊廓街と中央司法会計研究室