小笠原諸島の西之島で海底火山が噴火して、何やら新しい島がメキメキ出来上がっているようですが、同じ東京都に属していながら東京から1000キロ以上も離れた別世界の存在に気をかけるような機会もそうそうないというもの。そんな小笠原は世界自然遺産に登録されて一部ではにわかに脚光を浴びている。一方で伊豆諸島の方はというと、昔は新婚旅行の名所だったらしい八丈島などの島々も、すっかり寂れて微妙な雰囲気になっている。
我々は竹芝桟橋から八丈島航路のフェリーに乗り、八丈島と御蔵島、それに三宅島の3つの島を順番に訪れた。本当は青ヶ島に渡りたかったのだが、天候上の理由で船便(還住丸)は全日欠航、ヘリは全て予約が埋まっていたので、上陸は叶わず、その代わりに御蔵島に寄って、その翌日に三宅島に上陸するコースを取った。特に行っておきたかったのが、2000年に起きた噴火で全島避難となり4年半の間全くの無人島となり、今もなお火山ガスの脅威に怯えながら人々が生活をしている「三宅島」。
三池港から上陸、棄てられた村役場、ゴーストタウンと化した三池集落
八丈島航路のさるびあ丸は、三宅島にある2つの港のうち東側にある三池港に着岸した。御蔵島もそうなのだが、三宅島の港は直接外洋に面していて少しでも波が高くなると接岸不可能となり船はそのまま次の寄港地に行ってしまう事がよくある。電車が人身事故とかで停まる度にブーブー文句垂れる都会人からは想像できない厳しさが離島航路にはあるんですね。東京から直線距離で180キロ、竹芝桟橋を夜10時に出た船は、翌朝5時に三宅島に着く。ちなみに八丈島方面からの帰りの船だと、昼の2時位だ。
それで港にはのっけからゴツゴツとした溶岩石が。典型的な火山島である。三宅島と言えば有名なのが島の中心にある雄山で度々起きる大噴火。1983年の噴火では島の西側にあった阿古集落が一部溶岩流に埋もれて消滅。さらに2000年6月に起きた噴火では同年9月に全島避難指示が出て三宅島に住んでいた島民全員が島外に脱出、都内の都営団地などで避難生活を行っていた。その間三宅島は一時期全くの無人となり、避難指示の解除が出た2005年2月1日にようやく島民が帰島できる目処が付いた、という歴史がある。
我々は三池港から予約していたレンタカー会社と落ち合い車を手配してから早速島を一周し始めた。まずは三池港や三池集落のある島の東側である。この一帯は雄山から流れてくる火山ガスが風向きの関係で高濃度になる地域で、2005年に避難指示解除が出て島民が戻り始めてからも長年「居住禁止区域」(坪田高濃度地区)とされ、この地区に住んでいた人々は家に帰る事が出来なくなっていた。で、その結果がこれらの廃屋群。厳しいっすね…
そんな高濃度地区の三池集落には三宅村役場もあったのだが、全く使う事もできないので、現在は島の西側にある阿古集落に役場ごと移転してしまっている。2000年の噴火前まではここが村の中心だったというが、今ではほぼ無人状態。同じ高濃度地区内にある三池港も、風向きの関係で島の西側の錆ヶ浜港への着岸が難しいと判断された場合のみ使用され、フェリー乗り場だけは稼働しているが、事実上ゴーストタウン同然の状態だ。また三宅島空港もこの近くにあって、上空のガス濃度が高いと飛行機やヘリ(東京愛らんどシャトル)もすぐ欠航になってしまうという状態にある。
役場の前には、主を失った家や何らかの原因で土台を残して全て無くなってしまったかつての家屋や店舗の建物跡が見られる。全島避難指示から13年、かつての街の中心は荒れ果てていた。その光景は2011年、東日本大震災の津波で流された集落のそれと被る。かすかに鼻腔を掠める硫黄の匂いが、高濃度地区である事を示している。
ほんの少し前までは、この三池集落もガスマスクの着用なしに出入りする事が出来なかった。三宅島への渡航者には漏れ無くガスマスクの携帯が義務付けられ、竹芝桟橋の客船ターミナルや島のフェリー乗り場などの売店で売られているガスマスクを購入しなければならなかったのだ。2013年7月に常時携帯の義務が解除されたばかりだった。
しかし13年も経つと頑丈な家がこんな風になっちゃうのね。コンクリートの土台と便器を残して無くなった家屋。元々何かの商店だったようだが、今となってはここの主もどこかで避難生活を続けているという事だろう。
噴火の爪痕・伊豆諸島「三宅島」上陸記シリーズ
- 三池港から上陸、棄てられた村役場、ゴーストタウンと化した三池集落
- 高濃度地区に指定された三池浜。未だに火山ガスの匂いが漂っていた
- 椎取神社の埋没鳥居、生々しい噴火の爪痕
- 1983年噴火の溶岩流で消えた阿古温泉郷と旧小中学校の廃墟
- 雄山中腹の村営牧場跡地は「死の大地」さながら
- 旧社会党書記長浅沼稲次郎の生家を訪ねる