溶岩に呑まれた集落、火山ガスが漂うゴーストタウン…伊豆諸島「三宅島」上陸記

島嶼部

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1983年噴火の溶岩流で消えた阿古温泉郷と旧小中学校の廃墟

三宅島 三宅村

三宅島にはもう一つ、昭和58(1983)年の噴火活動によって集落ごと姿を消した場所がある。島の西側にある阿古地区の北側一帯の集落だ。ここにはかつて「阿古温泉郷」という温泉街がひっそりとあった、島で最も大きな集落だったというが、そこに溶岩流が押し寄せて集落を飲み込んだのである。その跡地には旧阿古小中学校の校舎だったコンクリート建築が残されていて、生々しい被害の実情を観察する事ができる。

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阿古小中学校跡の周辺一面に広がる溶岩地帯に2008年に作られたばかりという遊歩道が設けられていて、観光客なんぞが遊歩道の上からかつての集落跡を見る事ができるようになっていた。この下に温泉街が埋もれてるんですよ。到底考えられませんな。

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で、頑丈なコンクリート建築だけの事はあってドロドロに煮えたぎる溶岩流の直撃に遭っても、旧阿古小中学校の建物は埋もれている部分を除いてそのままの姿を留めていた。国旗掲揚のポールも未だに土台ごと残っている。

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校舎の窓はサッシを残して窓ガラスが全て割れていて、その中から校舎の状況を覗けるのだが、本棚らしきものや黒板や椅子とか机の残骸などが僅かに見られて非常に生々しい。

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体育館跡と思しき建物。こっちは半分以上が溶岩で埋もれていて何が何やらさっぱり…といった状況。流れ出た溶岩流が集落や学校を飲み込んでなお海面にまで到達している。

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1983年の噴火では事前の避難勧告や村営バスによる住民の避難行動ができていた為に、集落に住んでいた島民の人的被害は全く出なかったというのが不幸中の幸いである。かたや今年あった伊豆大島の土石流は深夜の出来事ともあって避難行動が後手に回り、多くの死傷者を出した。火山島での暮らしって本当厳しいですね。

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かつての校舎の前には見学しやすいように展望デッキまでしっかり作られているという念の入れよう。三宅島に来る観光客は大抵釣り客かダイビングで我々のような泳ぎも潜りもしない変人以外殆ど誰も居なかったのだが、後から来たDQNっぽい男女グループが水着姿のままで溶岩石を拾って放り投げて遊んでいたりしてヤバそうだったのでとっとと退散した。

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校舎の建物全景は遊歩道からではなく反対側の車道から見た方がわかりやすい。阿古地区を飲み込んだ噴火から30年が経過しているので、この辺の一帯はかなり樹木が生い茂っていて溶岩石の下地が見えなくなっていた。

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もしかしてあと数百年したらこの場所も富士の樹海みたいになるのかも知れんが、そうなる前にまた噴火が起きるかもな。三宅島の火山は1940年、1962年、1983年、2000年と、ほぼ20年毎に噴火を繰り返している。「火山活動度ランクA」に指定された13の活火山のうちの1つです。

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少し離れた一周道路沿いの高台から、噴火前に阿古集落があった場所の全景が眺められる。一面溶岩石に覆われていて、旧学校校舎以外の建造物は一切残っていないようだ。恐らく全て古い木造建築で、溶岩流の熱で焼かれて無くなったんだろう。集落のうち、北西端の海沿いの一部は溶岩流が届かずに焼失を免れている。

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ついでに傍らに置かれているかつての阿古集落の写真。「観光と漁業で賑わった阿古温泉郷」とある。 この集落には1300人以上の住民が約400戸の民家で生活を営んでいたそうだ。街は失われたが、住民が全員無事だったというのはある意味奇跡的だ。

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阿古集落跡に近い今崎海岸は1643年の噴火で形作られた溶岩流の断崖絶壁が連なる。溶岩流が波の侵食を受けて海食洞が出来た辺りが「メガネ岩」と呼ばれていて、ここは波の穏やかな日にはダイビングスポットの名所になっているらしい。

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そこから内陸側にふと目をやると唐突に視界に飛び込んできた、岩場に無尽蔵に置かれた卒塔婆の数々。傍らには小さな村営の火葬場の建物があった。どうやら島民の共同墓地のようだった。

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