溶岩に呑まれた集落、火山ガスが漂うゴーストタウン…伊豆諸島「三宅島」上陸記

島嶼部

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旧社会党書記長浅沼稲次郎の生家を訪ねる

三宅島 三宅村

噴火活動でダメージを受けてひどい状態になった場所ばかり見てきたので、今度は割と無傷だった島の北側から北西側を見ていく事にする。島の北側には伊ヶ谷、伊豆、神着とそれぞれ集落があって、東京都の三宅支庁や三宅島警察署といった公的機関も揃っている。

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島の北側の神着地区には一際立派な茅葺屋根の「島役所跡」がある。島の村役場ではなく個人所有の民家なので、内部は公開されていない。江戸時代後期に建てられた古い木造建築で、伊豆諸島に現存する木造建築物では最大で最古のものだとか。周囲の庭に生えた立派な蘇鉄やビャクシンの巨木も相まって威厳を感じさせる建物だ。

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家人に変わって我々を迎えていたのはその辺の野良猫だった。このへんやけに猫が多いです。

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度重なる噴火にもめげずこの島に大きな根を張り生き続けるビャクシンの巨木。樹齢470年超らしいです。さぞ神秘的だがそれよりも我々は神着地区で探しているものがあった。三宅島出身の有名人代表、旧社会党書記長・浅沼稲次郎の生家がこのへんにあるのだ。手持ちのパンフには一周道路を外れた山側に生家であると目印が打ってあるのでその通りに行ってみる。

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旧社会党の書記長や委員長などを務め、演説中に右翼青年に暗殺された故・浅沼稲次郎。その生家が島の北側の神着地区の高台に今もひっそり残っている。そういえば伊豆諸島南部のどの島に行っても苗字が「浅沼」の人が多かった。この周辺の住んでる人達も稲次郎さんとは遠い親戚だったりするんでしょうかね。

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浅沼稲次郎の生家周辺は通称「浅沼公園」という児童公園になっていて、家の脇に遊具なんかが普通に置いてあるのだが、そこで遊んでいる子供の姿はない。あんまり火山ガスが流れてこなかったからか、この付近の木々は枯れておらずピンピンした樹木が鬱蒼と生家を取り巻いている。

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社会主義の政治家で「演説百姓」などと呼ばれていた人の割に、生家は遠隔離島とは言えどもなかなか立派な家でした。元々は名士の家で親には医者になれと言われたのに反発して早稲田大学に入ってその後社会主義運動に傾倒したという。今も昔も、早稲田って歴史ありますよねー。

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そんな稲次郎さんの銅像は生家の脇にひっそり置かれていました。右手を挙げた銅像の姿は、かつて目指していた社会主義国となった平壌の金日成銅像の姿と被るようだが、噴火の時にはそのまま放置されていたので上半身が火山ガスの影響で変色してしまったらしい。

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あの暗殺事件って昔のテレビ番組の衝撃映像シリーズで度々見たような記憶があるけど昭和35(1960)年の話なんですね。古い…浅沼稲次郎亡き今、旧社会党はみるみる衰退して、三宅坂にあったオンボロ状態の旧社会党本部(社会文化会館)ビル正面玄関に鎮座していた浅沼稲次郎の胸像も、社民党本部の移転に伴い引っ越してしまった。引越し先の民間ビルに重さ2トンの胸像をそのまま移すと床が抜けるので、470キロに「減量」した上での引っ越しだったらしい。

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観光に来る目的もせいぜい釣りやダイビングくらいで土産物が何かいまいち思い浮かばない三宅島だが、神着地区にある「岡太楼本舗」で製造されている「牛乳煎餅」が三宅島の銘菓として知られている。神着にあるのは店舗兼工場兼自宅。まあなんともアットホームな作りだ。

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一周道路沿いにある店の傍らにでかいホルスタイン種の牛さんの置物がのっそり居座っているので車で走っていても嫌でも目につく存在。そういえば三宅島の牧場は噴火以後稼働していないが…店の人に聞いたのだが、さすがに材料の牛乳は今では他から仕入れて作っているという事だった。この島で再び酪農業が再開されるのはいつの事だろう。土産用にひと箱買って帰っていった。

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島の北西部にある伊ヶ谷港へ降りる道すがらぽつんとそびえる一つの墓。流人としてこの島で余生を過ごした江戸時代中期の歌舞伎役者・生島新五郎の墓である。流人と言えば八丈島の方がもっぱら有名だけど、やはり三宅島もまた流人の島としての歴史を持つ。伊豆諸島全域が流人とゆかりが深いお土地柄ですわね。

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生島新五郎がどんな人物で、なんで三宅島に流されたか、傍らの案内板に詳しく書かれている。鮫島…じゃなくて絵島(江島)事件という大事件がありまして、まあ今どきで言う所の芸能大スキャンダル。江戸城大奥御年寄の絵島(御年寄といっても30代半ばだけど)が生島のいる木挽町・山村座の芝居見物に立ち寄り宴会を開いた事で大奥の門限に遅れてしまったという理由で関係者1400名が一斉処罰されたという出来事。

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その後生島は捕らえられ石抱きの拷問に掛けられ絵島との密通を自白させられる。時代が時代だけに、今どきで言う所の海老蔵がリオンに殴られたどうこうのレベルの話ではない訳です。ちなみに生島は大坂の生まれだそうで、晩年に赦免され江戸に戻ったとか三宅島で死んだとか諸説あってよく分からんが墓石だけはここにある。港が見える高台は生島の墓以外にも地元民の共同墓地があって、墓石がずらりと並んでいる。

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島の西側に、明治後期に建造され伊豆諸島で最初に点灯した灯台らしい「伊豆岬灯台」のある海岸から日没の夕日を眺める事ができる。2000年の噴火による全島避難以来、まる4年半もの間、人間による営みが途絶えた島、という点では日本全国探しても珍しい島なのかも知れない。そういう事情もあって周辺は釣りスポットとして人気が高いようで、我々が泊まった旅館の客も殆どは釣り客ばかりだったのが印象的だった。

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三宅島や伊豆大島を含めた伊豆諸島も然り、鹿児島や雲仙島原や浅間山やら洞爺湖やら、火山と共生している街は殊の外この国には多い。しかし三宅島の場合はまだまだ復興とは程遠い箇所も残っていて気の毒な感じがした。竹芝桟橋から一晩フェリーで過ごせば翌朝早朝には着いてしまうような近さだし、温泉とかもあるし、もうちょっと観光客が来ても良さそうな島である気はしたのだが、島の人口は減り続けているし今後どうなる事やら。


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