埼玉県名発祥の地は、関東随一の規模を誇る古墳群が存在する歴史の地でもある。行田市埼玉地区にある「さきたま古墳群」をさらに散策する。
古墳公園の敷地内に建つ「史蹟埼玉村古墳群」と書かれた石柱を見ると昭和二十六年の日付が入っている。古墳群は公園として整備されていて目新しい印象を受けるため、この石碑だけがやけに歴史を感じさせる。
昭和43(1968)年に稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」を10年後の1978年にX線検査したところ、両面に115文字の漢字が刻印されていた事が判明。その時にさきたま古墳群が初めて注目されるに至ったそうで、鉄剣は国宝に指定されさきたま資料館に展示されている。
その稲荷山古墳は階段が付いていて、なんと歩いて登る事が出来る。関西の天皇陵なら有り得ない話だが、昭和初期には前方部が干拓の為の土砂に使われ壊されていた上に後円部の頂上にはお稲荷様も祀られていた(だから稲荷山古墳と言う)。つまり現在の稲荷山古墳は前方部が復元されたものだ。
ちなみに大阪・堺の仁徳天皇陵の前方後円墳のおよそ4分の1のサイズだそうだ。
歩いて登れる稲荷山古墳の頂上には埋葬施設である石室を復元した模型が置かれている。鉄剣の主であるヲワケの臣という人物が埋葬されていたそうだ。
もう一ヶ所、稲荷山古墳以外にも徒歩で登れる古墳が唯一の円墳である丸墓山古墳だ。もっともらしい登山ルートのような階段も整備されていて、むしろ小高い公園の丘といった所だが、これもれっきとした古墳。
周囲105メートル、高さ19メートルあって、さきたま古墳群の中では最も巨大な形をしている。
丸墓山古墳の上に登ってみるとかなり見晴らし良好である。埼玉なのに北海道と見紛うような風景だ。
この古墳の上で秀吉の配下・石田三成が忍城攻略の際、陣地を張ったという。忍城と言うのは行田市中心地にあった城の一つで、復元されて公園となっている。
見渡す限りの田園風景。一応これでも東京から1時間ちょいで来られる場所なのである。関東平野はひたすら広大である。
この丸墓山古墳の頂上はまるっきり公園の展望台状態になっていた。やっぱり古墳らしくない。
ちなみに古墳公園の東端にある将軍山古墳は後円部が展示館になっていて、古墳内に入る事が出来る。他の古墳は登ったり中に入る事はおろか立ち入る事も出来無い。
全ての古墳が綺麗に整備されているわけではなく、愛宕山古墳のように周囲が森と化した古墳の存在もある。さきたま古墳群にあるのは古墳時代後期のものでサイズの小さなものが多い。
もはや古墳というよりは行徳富士状態の産廃処分場ライクなものもある。さきたま古墳群の世界遺産入りを果たすべく考古学的な研究はこれからまだまだ続けられているそうだが…