三ノ輪の投込寺「浄閑寺」 吉原遊女の慰霊碑

地下鉄日比谷線三ノ輪駅から程近い場所に浄閑寺という寺がある。

見た所どこにでもある寺の一つだが、この浄閑寺の墓地には吉原遊郭で命を落とした遊女が葬られている事でよく知られている。
「三ノ輪の投げ込み寺」と呼ばれているのは、1855年にあった安政の大地震の際に死んだ多くの身寄りのない吉原の遊女が投げ込まれるようにこの寺に葬られた事から来ている。昔も今も遊郭は常に表の世界からひた隠されてきた。そんな暗い歴史もこの土地に葬られているかのようだ。



浄閑寺の本堂を左へ回ると墓地が広がっている。寺自体は吉原遊郭が出来る以前からあったもので、普通に地元住民の先祖代々の墓地が並んでいる。

人目を避けるように本堂の真裏にひっそりと置かれているひと際立派な墓碑が見えるはずだ。これが吉原の遊女達が葬られている「新吉原総霊塔」である。

新吉原総霊塔は1793年に建立され、現在のものは1929年に改修されたものが置かれている。ここに葬られている遊女は、安政の大地震で「投げ込まれるように葬られた」遊女を含めておよそ2万人にも及ぶ。

塔の足元には「生まれては苦界し、死しては洗閑寺」と詠まれた川柳作家・花又花酔の句がある。葬られている遊女は無縁仏であり、身元も分からず孤独のうちに死した遊女の哀れな一生を思い浮かべる。現在は遊郭は公然には廃止されているが、今もそんなに時代は変わっていない。
浄閑寺の過去帳によると死んだ遊女の平均年齢は21.7歳ととても若い事が分かる。一体彼女らがどのような道を辿ってきたのか、今となっては知る由もない。

今も霊塔の脇に積まれる目新しい卒塔婆の数々。不幸に死した遊女の存在は吉原の歴史とともにある。

塔の横面から中身がちらりと見えるが、中を覗くと遊女の遺骨が詰まった骨壷が生々しく残っているのである。
写真家のアラーキーこと荒木経惟氏がまさしくここ三ノ輪が出身で、浄閑寺の門前に実家があり、本人の名前も浄閑寺の住職が名付け親である。子供の頃から浄閑寺の墓場を遊び場にして、この塔によじ登ったり色々イタズラしたりしながら成長したという程、ゆかりの深い寺だ。
ちなみにアラーキーと並ぶ写真家の篠山紀信氏は青山霊園でヌード写真を撮影して警察沙汰にもなって住職にカンカンに怒られたりしているが、この二人は同い年だしヌード写真ばかり撮ってるし、何かと比較されやすい存在だ。

新吉原総霊塔の真向かいには永井荷風の詩碑と筆塚が置かれている。彼は小説作家でもありながら、生涯東京の街歩きをライフワークにしていた有名な人物である。

悲運の人生を辿った吉原遊女が葬られている浄閑寺に荷風は度々訪れていて、思いを馳せていたとされる。
荷風は38歳から死の直前まで書き綴っていた日記「断腸亭日乗」の中で自らの死後は浄閑寺に埋葬して欲しい旨を記していたものの、実際は雑司が谷霊園に葬られている。しかし筆塚だけが谷崎潤一郎ら友人の手でこの浄閑寺に置かれているのだ。彼にとってこの場所がよほど強いインスピレーションを受けた事の証であろう。

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