前の浦商店会を過ぎてさらに海側に向けて歩く。道沿いに進むと森ヶ崎本通商店街、東京労災病院、森ヶ崎水再生センターなどがある森ヶ崎バス停に至る。
森ヶ崎水再生センターの付近がかつての鉱泉街だったそうだ。森ヶ崎鉱泉は明治時代に発見された鉱泉で、戦前までは保養地として栄えていた。
昔は花街まであったとか言われていたそうだが今ではとてもそんな風には見えない。寂れた最果ての下町というしかない光景だ。森ヶ崎鉱泉の名残りは大森寺境内に源泉碑が見られるのみ。
ちらほらと店舗が残っている中で、廃墟となった店も少なくない。シャッターが降りたままの商店は絶好の政党ポスター貼りつけ場所となる。やっぱり公明党と共産党が多いです。
東京労災病院の前から南側に伸びる森ヶ崎本通り商店街。商店街らしい賑わいは見当たらない。浦守稲荷神社の神輿ルートになっているようで、商店街に沿って紙垂のつけられた細縄が張り巡らされていた。
森ヶ崎本通の南端、道すがら目についた「ポルノ雑誌追放モデル地区」と他愛もない川柳が記された古びた看板。この付近から町工場がやたら目立つようになる。
森ヶ崎公園西側一帯の半工業地帯。昔ここが保養地だったとは想像も出来無い。町工場とボロアパートが入り交じった独特の街並みが固まっている。
神輿ルートの細縄が森ヶ崎公園の敷地に続いてまだまだ先へ伸びている。
途中には遊水設備の残骸が見られる。森ヶ崎水再生センターで浄化された水が流れてくるのだろうと思われるが使われている形跡がない。
水溜まりは澱みまくっていて単なるボウフラ発生装置と化していた。なんということでしょう。こりゃ酷いぜ。傍らには「この水は飲めません」と注意書きがある。誰も飲むはずもないだろう。
周辺のボロアパートは町工場の従業員の住み込み寮だろうか、あまり所帯染みた感じもなくひとり住まいの趣きが強いアパートが多い。
外壁だけは塗り直されているが、建物の作りを見てもかなり年季の入ったものが目立つ。そして波トタン葺き率が高い。完全に田舎の佇まいである。
森ヶ崎の最果ても町工場で占められていた。そして必ずお約束のように貼りつけられている公明党ポスター。
あまつさえ児童公園の車止めまで三色旗カラーですよ。森ヶ崎の地名は創価学会の愛唱歌のタイトルにある通り学会員には馴染み深い。だって大作先生の地元だし。
森ヶ崎公園脇を過ぎると呑川河口から東京湾に至る。有名な「犬連れ船上生活ホームレス」が住んでいた羽田空港島の様子が見られる貴重な場所だった訳だが、今でも住んでいるのだろうか。
参考ページ
種村季弘を歩く~その四 「森ヶ崎鉱泉探訪記」 (前編)
森ヶ崎鉱泉と海水浴場