現在の住所で言うところの、西新宿四丁目。
そこに存在した「十二社」と呼ばれていたかつての景勝地。昔は池を取り囲むように料亭が軒を連ねていたと言われる場所で、最盛期には料亭・茶屋が約100軒、芸妓300名を擁していたという大歓楽街だ。今ではその池も埋め立てられ、その歴史自体が忘れ去られようとしている。
しかし、わずかながらに花街の名残りを留める一角が現在も残っている。
新宿中央公園から十二社通りを挟んだ向かいに、人目を忍ぶように隠れる細い階段の路地裏がある。周囲はオフィス街に変わってしまったにも関わらず、この場所だけが開発の手から延々と逃れてきたかのような古い街並みを見せる。
通りがかるスーツ姿のサラリーマン達がこの場所だけを避けているかのごとく全く人が通りがからない路地裏の坂道の途中に、怪しげな一軒のホテルが残っていた。
そのホテルの入口に立つと、ホテルニュー寿と書かれた看板がある。その外観から見てもビジネスホテルというよりは場末の連れ込み旅館のような風貌をしている。
しかし玄関口の料金表が書かれた看板にホテルの閉店を告げる張り紙がべったりと貼られていた。残念ながら2010年2月末で営業を終えてしまったそうだ。
このホテルニュー寿の前の階段を降りた所にちょうど埋め立てられた十二社池が存在していたらしい。これが辛うじて今に残る花街の名残りの一つであろうか。
池も埋め立てられて景勝地としての歴史は完全に閉ざされていたのに、このホテルが最近まで営業出来ていたのは、夜の新宿中央公園あたりで発情しちゃったカップル(ゲイ含む)なりがそのまま事を致すためにホテルを利用していたのかも知れない。
歌舞伎町あり二丁目あり旭町ありと色街だらけの新宿の実態が次々浮かび上がるが、さすが日本で一番人間が集まる街だけのことはある。
十二社界隈にはホテルニュー寿の他にもう一軒「一直」という旅館が残っている。ニュー寿からさらに南側の路地を入った所だ。ここも元は十二社池の畔に建つ料亭旅館だったそうだ。
やけに豪華な玄関口に料亭らしさ思わせる旅館だが傍らには御宿泊・御休憩の項目で分かれた料金表があるところに、連れ込み旅館らしさを見せている。
だがよく見ると宿の名前がハングル併記されている張り紙があった。最近じゃ韓国人増えまくりな新大久保の韓国人宿の競争が激化しているのか、かなり離れた西新宿でも韓国人客の受け入れ態勢を整えているようである。
連れ込み目的の客ばかりでは時代の波に取り残される。そんなご時世を垣間見せるハングル併記で気がついた。「いっちょく」じゃなくて「いちなお」なのね。
さすが元料亭だっただけの事はあり、2階の客室部分と思われる窓の装飾にそれらしさを感じさせてくれる。
いまや十二社に残る、花街の系譜を辿る旅館は「一直旅館」一軒しか存在しないようだ。あとは十二社池が在った場所に沿った坂道に、料亭と負けないくらいオンボロのアパートや廃屋が密集している。
休憩中のサラリーマンが頻繁に行き来する坂道の路地にも花街時代の重厚なコンクリート塀が綺麗に残っていた。塀の向こうはとっくに建て替えられて普通の民家に変わっている。
西新宿という土地柄だけあってデベロッパーが固唾を飲んで街をぶち壊してビルを建てるタイミングを伺っている場所だけに、花街時代の痕跡をここまで残している十二社の存在は驚きの連続であった。実際この一角を除いてみんなオフィスビルに変わっているし、いつまでもこの場所が残っている保証もない。なるべく早めに見に来よう。