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東京最大のスラム・四谷鮫河橋谷町があった街…新宿区「若葉・南元町」

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四谷の若葉町辺りは須賀神社以外にもやたらめったら寺と墓地が密集している。かつて鮫河橋と呼ばれた谷底の土地の両脇に残る四谷の寺町は、戦前までスラム街だったという街の歴史を静かに封じ込めるかのように連なっている。

須賀神社の女坂を下ると神社の下に広がるのは妙行寺の墓地。崖下に墓が連なった光景はなかなか迫力がある。四谷怪談が有名な土地だけに墓場がやけに多いというのは何かの因縁なのか。

妙行寺と言えば四谷怪談を知る人ならば西巣鴨の「お岩さんの墓」がある方の妙行寺を思い浮かべるが、四谷にも同じ名前の寺がある。こっちはどうやらお岩さんとは無関係なようだ。

明治時代、四谷区内の50余りの寺院共同で鮫河橋に住む貧民の子供に今の義務教育にあたる教育を施そうと、この妙行寺などの敷地を使い「三銭学校」という学校を開いていたそうだ。授業を受ける生徒達に三銭ずつの寄付を募って運営資金にしていたらしい(→詳細

四谷の寺町は江戸時代の寛永年間(1640年代)、江戸城拡張に伴なう工事で、元々麹町にあった寺が今の場所に集団移転してきた事が始まりという。街の各所に寺や墓地の案内看板が張り巡らされている。

新宿通りから寺町の間は古い下町風景が残っている一方で高級マンションに建て替わっている箇所も見受けられる。よく見ると谷底の鮫河橋谷町を取り巻くように寺町が形成されている。お屋敷町と貧民街との緩衝地帯のような形だ。

鮫河橋というと負のイメージが付きまとうせいか、今どきらしいごもっともな「若葉」という地名に改められたのは昭和18(1943)年の事。貧民街の歴史は既に戦前には抹殺されようとしていたのだ。

しかし現在でも街の名残りはかすかに感じられる。鮫河橋谷町の窪地を眺めると必ず墓地が目に入る。墓場に囲まれた谷底にかつては環境劣悪なバラック民家が連なっていたと言う。

そんな鮫河橋谷町に下る東福院坂(天王坂)の上から景色を見ると、その反対側に須賀神社男坂と背後に信濃町の聖教新聞社ビルが見える。今でも下町風情が全開の街並み。

東福院坂の途中に愛染院という寺の入口がある。ここも例に漏れず崖下の旧スラム街との物理的な緩衝地帯だったのだろおうか。

愛染院の入口から古い煉瓦塀が連なっているのが見える。寺に煉瓦塀とはそれらしくない取り合わせだが、何かの名残りなのだろうか。

煉瓦塀はかなり古くはなっているものの比較的綺麗な形で残っている。調べたところ、大正時代に境内に建てられた煉瓦倉庫の名残りではないかと思われる(→詳細

愛染院の境内を見ると、その向こう側に屋上部分が寺院っぽい装飾のついた、いかにもお寺的なビルが建っているのが見える。真成院(四谷霊廟)の建物だ。

ビルインタイプの寺院である真成院、墓場の団地と言うべき室内霊園を完備していて、なかなか都会的な寺だったりする。

この真成院の前に続く観音坂もなかなかの急坂である。鮫河橋谷町から新宿通り方面に抜けるにはいずれにしても坂道を登らなければならない。

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東京最大のスラム・四谷鮫河橋谷町があった街…新宿区「若葉・南元町」

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東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
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