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東京にもあるハンセン病療養所「国立療養所多磨全生園」を訪ねる 

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東京都東村山市と清瀬市にまたがる通称「病院街」。感染病患者を隔離する目的で郊外の雑木林を開拓して作られた広大な敷地に結核・ハンセン病患者の療養所が数多く建設された。医療技術が進歩しどちらの病も治療可能になり、隔離施設の存在意義も無くなった今でも病院街は当時のまま残っている。

東京都心から最も近いハンセン病療養所の一つ「多磨全生園」を訪れた日、園内では屋台や踊りなどのイベント「全生園まつり」が行われていた最中だった。

園内中央の通路に沢山屋台が並んでいる中で、どうも聞き慣れた太鼓の音が聞こえてくる。

なんだろうと思って近くに寄ってみると、そこには韓国の民族衣装に身を包んだ一団が「アリラン」熱唱中。在日コリアンとハンセン病患者、どういう繋がりがあるのだと一瞬思うのだが、被差別としての括りで両者は政治的に近い立ち位置にある。

園内には入所者の通行を妨げないようにと注意書きが掲げられているが、ハンセン病は重症患者になると失明する事もある。それで今でも盲人の元患者が居るようだ。

アリランの歌声と太鼓の音から遠ざかるように園内の東側を進んで行く。元患者の居住区である木造平屋建ての住居が整然と並ぶ様子は、昔の公営住宅のような趣きに似ている。見たところ半分くらいは空き家になっている。

コミュニティセンターに隣接して、銭湯の設備も置かれている。建て替えられたのかしてここだけ目新しい。

園内の東の外れには納骨堂がひっそりと置かれていた。この納骨堂では多磨全生園の開設以来園内で死亡した入所者の遺骨が納められている。

納骨堂に刻まれた言葉は「倶会一処」。死しても極楽にて共に逢おうという意味が込められている。浄土真宗の墓地にはよくこの言葉が刻まれている。

納骨堂のそばの石碑に建立の経緯について書かれているが、石碑にある3493人という数字は石碑が建った1986年のもので、現在はもっと増えているはずだ。およそ4000人もの遺骨は家族の引き取り手もなく、孤独のままにこの地で眠っているという。

園内西側の居住区は大部分が空き家になっていて、まるで廃墟の街と化している。年々入所者が減っているのだから、これも自然な流れではある。東側に多い独立型の入所者寮と違いこちらは棟続きになっていて、比較的重症者が入居していた棟であろうと思われる。

居住区を抜けた南側には古い木造の洋館がある。玄関前には理髪店であることを示す赤と青の古びた回転灯が建てられている。言うまでもなく散髪屋である。

園内南側に出ると「全生学園の跡」の石碑が置かれている。かつてハンセン病患者の隔離政策が行われていた頃、隔離の対象となったのは成人に限らなかった。児童・青年患者の教育機関として園内に学校が置かれていたが、昭和54年に休校となり建物は解体されている。

全生学園跡の横に小高い丘がある。「望郷の丘」と名づけられた丘はかつて患者自らの作業で園内に脱走防止用の掘割を築いた時に出た残土で出来たもの。昔は園外の景色が見られた唯一の場所といい、望郷の念を抱く患者らの憩いの場であったそうだ。

今では自由に出入りできるようになったとは言え、そこらのヤンキーがアホな落書きを残して帰っていったりとろくな目に遭っていない。

多磨全生園の敷地を記念公園として整備する「人権の森構想」というものがあり、園内の設備を保存して残しておこうという動きが元患者らの中であるが、全生学園の建物が取り壊されるなど、思うように資金作りが出来ていないそうだ。

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東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
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