【横浜市】知られざるハマの貧民窟!南区南太田の旧スラム「乞食谷戸」跡地を歩く (2010年)

横浜市南区

<続報>南太田乞食谷戸10年ぶりの再探索レポート公開中!(有料記事です)

日ノ出町や黄金町など横浜でもかなりDEEPな街を通り抜ける京急沿線、黄金町駅のもう一つ先に南太田という駅がある。

南太田駅と言えば各駅停車が快特電車に抜かれる待避駅としか知られていなかったり、駅を降りると地味な住宅地が広がっているだけのなんとも微妙なマイナーゾーンである。
特別用事がなければ来るきっかけもない場所になぜやってきたかというと、この土地にかつて「乞食谷戸」と呼ばれる貧民窟が広がっていたという話を聞いたからだ。

南太田駅前の広場はすっかり鄙びて古ぼけた商店に囲まれた空間で、わずかながらに駅から降りる利用者は広場の隅の路地へ流れ込んで行く。

駅前広場の隅に喜楽という年季の入った中華料理屋が見える。いつの創業なのか分からないが物凄く古い暖簾が掲げられている。そういえばここと隣の喫茶店以外にまともな外食店が全然ない。

喜楽の脇から細い路地裏が続いている。南太田駅の利用者がこの路地を通勤ルートに使っているらしく人の流れが出来ている。奥の方にもいくつか居酒屋やスナックがあるようだ。

昔の貧民窟と言えば東京では四谷鮫河橋谷町が知られるが、南太田の「乞食谷戸」は、横浜はおろか東京からも多数の貧民が流れ着き暮らしていた関東最大級のものだった。明治時代から昭和初期まで続いていたとされる。

この路地裏を抜けた先のドンドン商店街から清水ヶ丘方面に抜ける谷間に広がっていたらしい。昔の住所で言うと「南太田町字庚耕地」。

プレハブ小屋のたいやき屋台もすっかり廃墟化してしまっていて、通りがかるだけでげんなりしてしまう寂しい路地だ。

突き当たりのT字路に韓国居酒屋「韓日館」。ここを右に曲がってさらに路地を進んでいくのだ。

この付近は区画整理もきちんと行われておらず戦後のドサクサのような風情がある。まだ見ぬ乞食谷戸への期待を膨らませるかのような光景。どきどきわくわくである。

自転車が通るにも遠慮が要りそうな狭い路地裏。地元住民は当たり前のように通り抜けているが、初めて来た者の視線から見るとかなり珍しく映る。もちろんドンドン商店街へ抜ける道はここだけではないのだが、この道が一番の近道らしい。

路地裏の住人は通行人のマナーの悪さに憤慨している模様。ベニヤ板に空き缶と防犯カメラを逆さまに貼りつけてゴミを捨てるなと抗議の意思を示しているが、見た目がちょっと奇特である。

路地を抜けた先、ようやく車が通れそうな道に出られるわけだが、この先にドンドン商店街がある。意味不明なネーミングの商店街だが、南太田の町を代表する買い物拠点らしい。


京急南太田駅からドンドン商店街に続く路地。隣の黄金町や日ノ出町などは今でもかなりキョーレツな街並みが続いていたりするわけだが、南太田にやって来るとそれほどインパクトがある訳でもない。そりゃ戦前の話だから無理もない罠。

くねくねと曲がった道なりに沿って駅から200メートル程歩くとドンドン商店街に至る。

京急本線、大岡川とほぼ並行して走る幹線道路・平戸桜木道路に面して「DONDON」のアーチが掛かっている。ここから清水ヶ丘方面に伸びるメインストリートがドンドン商店街。
しかし入口付近はおおよそ商店街の風情は感じられず、飲食店もスーパーも見かけない反面、建物解体業者の看板だけが目立っている。

平戸桜木道路の交差点の名も「ドンドン商店街入口」。大岡川の支流にドンドンと水流が溢れる「ドンドン川」があることからこの名前が付いたという。なんともまあテキトー過ぎるネーミングで笑える。こう見えても創立50年以上の歴史ある商店街だ。

商店街らしき店舗よりもむしろ目立つのが裏通りに並ぶトタン葺きのかなりガタが来てそうなバラック家屋の存在だ。かつて乞食谷戸の名前を持っていた土地の貫禄を感じさせるかのようだ。

忘れられたかのような路地裏風景がひしめくドンドン商店街真裏の昼下がり。駅に近いのになぜここまで街が寂れているのか、不思議でしょうがない。

もっとも南太田の買い物拠点はドンドン商店街ではなく、平戸桜木道路沿いのフジスーパーにシフトしているらしい。ドンドン商店街はどんどん寂れるに任せひたすら古いバラック民家が残っているだけ。

商店街の脇にもかつて栄えていた名残りのような古い商店のビルがあちこちに残っていて独特の雰囲気を漂わせている。来た時間帯が悪かったのか既に潰れているのか知らないが店が閉まっている「北海ラーメン・大判屋」は老舗店で、ラーメンの他にも大判焼の店頭販売もやっているという。

そのラーメン屋の向かいにも屋根の付いた商店群の残骸がある。既にシャッター通りになってしまい封鎖されたまま。その奥には目新しいマンションが見える。

こんな寂れたローカルな商店街にも中国人経営の中華料理屋が進出し始めているようだ。「中国食堂」はドンドン商店街のサイトにも記載されていない。横浜に中華街があるから多いという訳ではなく関東一円例外なく中国人の数が激増しているのだ。

すっかり地方のシャッター通りのような風情すら漂わせるドンドン商店街に沿って進んで行くと清水ヶ丘病院、さらに保土ヶ谷駅方面へと続く。商店街のはずだが相鉄バスのルートにもなっていて、頻繁に大きなバスの車両が行き来する。

実は昼飯を済ませていない状態でドンドン商店街に来て、ろくな店がないので困っていた所だった。横浜の下町には微妙な中華料理屋はごまんとあれど、毎日脂っこい食い物ばかりでは胃がもたれる。
ようやく見つけたのは「おにぎり弁慶」。すっかり寂れる一方の商店街で奮闘中のおにぎり屋。乞食谷戸の痕跡を探しにやってきたのに危うく自らリアル乞食と化してしまいそうな前に辛うじて腹を満たす事が出来た。

乞食谷戸と呼ばれた貧民窟は、このドンドン商店街を中心にした谷戸地に開けていたと言われる。四谷鮫河橋谷町もそうだったが、さすがに貧民窟だと思わせるほどの悲壮感を感じさせるものは無い。
現在で言えば横浜橋通商店街向こうの中村町辺りの方がドヤ街も残っているし、よほど雰囲気が近い。

道すがらにあったのはドンドン囲碁センター。頭の健康に碁。
定年退職後の暇そうな老人の皆さんがドンドン勝負に没頭している。

気がつけば道行く人も老人ばかりだ。時代の流れからはドンドン取り残されるかのようにドンドン商店街界隈はドンドン高齢化と老朽化が進んでいるように思えてならない。

ペットフードと住宅リフォームの看板を立派に構えているこちらの商店も、もう商売やる気ありませんとばかりに店の軒下に洗濯物を干している。

そしていよいよ空き地が現れだす。狭い谷戸地の間に続く商店街から、高台の住宅街が見える。
戦前までこの土地にあった「乞食谷戸」の概要を見ると、明治14(1881)年頃から貧困層が集まり始め、様々な社会的弱者が集住、特にハンセン病患者もいた事から、医師の増田勇が「増田癩治療所」を当地に設置し医療救済にあたる。
昭和2(1927)年制定の「不良住宅地区改良法」により改良住宅が建てられるようになり横浜の乞食谷戸は次第に消滅したとされる。

さらにドンドン進むと左手に廃墟同然の「ニューママセンター」が姿を現す。
かつてはスーパーマーケットをはじめ沢山の商店がひしめいていたのだろう。錆び付いたシャッターと剥がれ落ちた看板が哀愁を誘う。

建物の脇にニューママセンターの入口がある。営業している様子には見えない。専門店街で、八百屋や魚屋など個人経営の食料品店が並ぶ形態のショッピングセンターであろうと思われる。

物凄く時代錯誤な感じがたまらない看板。昭和40年代くらいのセンスだろうか。「南太田共同住宅佐々木興業ビル」という民間のビルで、市営住宅ではない。上層階がマンションになっていて、2階がテナント、1階が商店街。高度経済成長時代のノリだ。

2階部分もまるっきり廃墟同然の姿を晒していて寂しい事この上ない。唯一1階左端の「かもめパンニューママセンター店」だけが現役営業中だった。

ニューママセンターの前から道は二手に別れる。右手に入ると清水ヶ丘病院、保土ヶ谷駅方面。

交番の隣には廃屋と見紛うようなオンボロバラック民家がある。しかしこの界隈でこんな民家は少数派で、殆どが綺麗な一軒家だらけになってしまっている。

ここから先はドンドン商店街から外れる事になるが、相変わらず谷戸地に寂れた商店が続く微妙な光景がずっと続いている。

時計屋、そば屋と古いながらも結構な数の店が見られる。昔はそれなりに賑わっていたのかも知れない。

しばらく進むと、相鉄バスの庚台停留所と清水ヶ丘病院が現れる。庚台という地名を聞いて、乞食谷戸があったというかつての住所「南太田町字庚耕地」の名残りを感じる。この付近まで貧民窟が続いていたのだろうか。

メインストリートの脇に目をやると、住宅地のすぐさま向こうに崖地が現れる。これが乞食谷戸の名残りを唯一示す地形の特徴である。
本当にフツーの住宅街でしかない。

丘の上に登るとさらに立派なマンションも現れる。四谷鮫河橋谷町のように寺町や孤児院が残っていたりと言う事もなく、昔の貧民窟の形跡はさっぱり無くなっているのが現状のようだ。我々は来た道を引き返す事にした。

<続報>南太田乞食谷戸10年ぶりの再探索レポート公開中!(有料記事です)

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