謎の古代墳墓と軍需工場!穴があったら入りたい埼玉裏名所「吉見百穴」  

比企郡

池袋から東武東上線に乗っておよそ1時間、東松山駅の東側、比企丘陵が広がる埼玉県の地理上の中心地「吉見町」はイチゴ栽培で知られる人口2万人の田舎町である。この町で地場産業であるイチゴ栽培よりも有名なのが、謎の古墳群「吉見百穴」の存在だ。

今からおよそ120年前の明治20年、当時の学者らの手で発掘された日本最大規模の横穴古墳群であるが、現在も横穴が掘られた詳しい歴史的経緯は解明されていない。

穴があったら入りたいとばかりに東京DEEP案内取材班はわざわざ吉見百穴見たさに東武東上線に乗ってやってきたのであった。百穴がある場所は吉見町でも比較的東松山駅寄りの場所にあるため、頑張れば徒歩でも来れない事はない(徒歩25分程度)。まあ通常はバスを使った方が良いだろう。

現地は「吉見町埋蔵文化財センター」が併設されており、300円の入場料が必要となる。

百穴の有料ゲート入口に吉見百穴についての概要が記された掲示板がある。当時東京大学の大学院生だった坪井正五郎氏によって発掘されたとある。

古代の横穴古墳群がそのまんま出てくる程に比企丘陵の地盤が比較的丈夫だった事から、戦時中は地下軍需基地を作る為に多くの朝鮮人労働者が招集されたという。入口に韓国国花であるムクゲが植えられているのはその為だ。

因みにこの地域の在日コリアンは東松山駅周辺に豚のカシラ肉の「やきとり」なるソウルフードなど独特の文化を生み出している。

有料ゲートを潜った先にはこれでもかと穴ボコだらけの山肌が剥き出しの吉見百穴が姿を表す。穴があったら入りたいが、これじゃああまりにも穴が多過ぎる。まいっちんぐ。

構内各所に百穴についての説明板があるのでそれを読みながら古墳群を見物していこう。

一般的に「百穴」は「ひゃっけつ」と読まれているが、地元の吉見町では「ひゃくあな」と読むのが正しいとされている。良く分からんこだわりようだ。

これだけ穴ボコだらけでは一見無秩序に見えるかも知れないが、実は規則性があると言う事が書かれている。実に不思議な存在だ。

小さな穴だらけの山肌にポカンと大きな穴が唐突に開いている。これが戦時中に作られた地下軍需工場の跡地なのだ。

導かれるがまま洞窟へと足を踏み入れる。中は思いの外広いようだ。

入口を抜けると天井が開けて広大な地下空間が姿を表す。この洞窟は太平洋戦争末期の昭和19年から20年もの間、当時の飛行機メーカー「中島飛行機」の現・さいたま市にあった工場を疎開移転させるため、昼夜を問わない突貫工事で作り上げたもの。

地下軍需工場が出来上がりつつあった昭和20年7月頃、飛行機工場の機材が搬入されエンジン等の部品が製造され始めたそうだが、その時期に終戦を迎え、洞窟は無用の長物と化した。それまでに徴用された朝鮮人が3000~3500人居たと言われている。

平和そのものな現代であるが、かつての地下軍需工場の跡地は仮面ライダーのショッカーの秘密基地としてロケ地になったり(→詳細)、それなりに有効活用されてきた模様。

軍需工場跡地を出て、いよいよ横穴古墳群の見物に移る。

当初は発掘者の坪井正五郎氏が「これはコロポックルの住居だ」と発表するなど、色々とファンタジーな説が飛び交っていたそうだが、結局は古代人の墓場の跡だろ、という説に落ち着いている。

横穴のうち数ヶ所には厳重に金網でガードされたものがある。さらに周囲はトラロープで立入禁止である事を示しているのだが…

ここには天然記念物のヒカリゴケが自生しているということで、大事に保護されていたのだ。生育の条件が厳しく少しでも適合しないと枯死してしまうと言われる。

金網越しにヒカリゴケが自生している横穴を見る事が出来るところがあるが、目を凝らしても良く分からなかった。

まだまだ穴があったら入りたいモードの東京DEEP案内取材班。欲張ってどんどん吉見百穴の奥に突っ込んじゃいますね(はぁと)

引き続き、穴があったら入りたい東京DEEP案内取材班が謎の横穴古墳群「吉見百穴」の中を探検していきます。

百穴とは言うものの、実は吉見百穴に存在している横穴は全て数え上げると219個もあるという。

これだけの数の穴が誰の手で掘られたのか、古墳時代後期(6-7世紀ごろ)に当時の地域を支配していたとある豪族が掘った集団墳墓ではないかと推測されている以外、詳しい事は分かっていないそうだ。

横穴の中の玄室は形がそれぞれまちまちで、中に遺体を安置する為の「棺座」も一つだけのものや複数になっているものなど、当時の埋葬事情によって度々違う形で作られたのではないかと言う。

横穴古墳群のうちいくつか一般人でも入れる箇所がある。玄室の中を見るとこの通りだ。右側に一段高くなった「棺座」がある、割とオーソドックスなタイプの玄室。カプセルホテルにしても狭く、大人一人が横に寝そべられる広さではない。

こちらはもう少し広いタイプの玄室。入口は一様に高さ1メートル程で、大人一人が腰を屈めてようやく入れるくらいの広さとなっているが、玄室に入るとやや広くなる。雪国育ちの人にとっては「かまくら」の中を想像してもらえると広さの感覚が近いと思われる。

しかしどこの玄室に入っても内部の落書きが酷い事に閉口してしまう。文化財を何とも思っていないDQNどもがそれほど多いと言う事であろう。

横穴古墳群はただ闇雲に掘られているものではなく、内部には水が溜まって遺体が腐らないようにとわざと傾斜を付けて作られているという。

219ある横穴のうち幾つかは半ば崩壊していたり緑に覆われて外側から見えなかったりと様々な個性を見せる。穴が掘られてかれこれ1300年が経過しているのだ。

入口が落盤しかかって辛うじて補強して支柱で抑える事で崩壊を免れている横穴の姿も。人生いろいろ、百穴もいろいろ。

森の影に隠れた横穴はびっしりと苔むして落葉に覆われている。日光が当たり岩肌が露出している表側の百穴とはまた違った姿である。言わば「しっとりと濡れた百穴」。

これらの横穴はどうして掘られたか、その事については推測の域を出る事はないようである。今の土建屋大国日本なら穴でも何でも掘りまくるだろうが、当時の技術ではノミ一本だけでここまで掘るのは大変だったろうな、と想像を巡らせる。

日本において古墳時代にはまだ地方にまで仏教が伝来していなかった事もあり、関東では8世紀あたりまで各地で古墳が作られていたようだが、その頃の人々の死生観とはどうだったのか。この案内板の説明文に書かれている説ではあんまり違いがないようだが。

吉見百穴の横穴古墳群が並んでいる小高い丘の上まで登ると、そこには休憩所兼茶屋のような建物の廃墟が残っている。昔はここでおでんとかを炊いて客に売っていたのだろうか。

丘の上からは吉見町の景色が一望できるようだが、鬱蒼とした森に囲まれて外はあまり見えない。

何気に昔使われていた農具や乳母車などが廃材としてそのまま放置されている。ちょっとした廃墟探検である。

「明治時代の農家使用品みて下さい」と書かれたプラカードが下がっている。もう何十年も放置されたままのような状態だ。「百穴付近案内図」と書かれた地図もどこを示しているかいまいちピンと来ない。

ちなみに吉見百穴の近くには、個人が二世代続いて手掘りで築きあげたという巨大な洞窟建築「岩窟ホテル」の遺構、それに首都圏では名門のワニの巣窟として有名だったものの近年廃業した「百穴温泉春奈」など、非常に濃密な名所がひしめいている。これら謎の古代墳墓がもたらす某かの磁場が影響しているのだろうか。

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