<注意>この記事は2010年当時の東京都中央区湊二丁目界隈の地上げ跡廃墟地帯を取材したときのものです。現在はタワーマンションが建設されてすっかり様変わりしております。
日比谷線八丁堀駅と有楽町線新富町駅の間、隅田川沿いに広がる下町ゾーン「中央区湊二丁目東地区」。この一画がバブル期の地上げ屋の暗躍によって街を滅茶苦茶に破壊させられたリアル北斗の拳状態の廃墟ゾーンになっている。
明らかに異様な街並みを見せているのは鉄砲洲児童公園から南東の隅田川寄り、湊二丁目の一帯。古い長屋やバラック家屋に混じって空き地にはまるで何かのオブジェのように2層式の立体駐車場が置かれている。
残った建物を見ても、全身をトタン板でコーティングした奇妙なバラック風の家屋で、良く見ると倒壊防止のためか支え木が建物の横手に仕込んである。見るからに危なげだ。しかも3階部分はどう見ても建て増している。
怪しげな家屋を見ると、どうやら町工場の跡だったというのが分かる。ここ湊町界隈は中小の印刷工場が立ち並ぶブルーカラーの下町だった。
その横にも、ずらりと並ぶ立体駐車場群。置かれて相当年数が経っているせいか、そのどれもが錆だらけで、全く使われている様子がない。地上げ屋の領地であることを誇示するかのごとく並ぶ異様さ。
殆どが駐車場用地にされてしまい、ポツポツと残った民家の多くは既に引き払われたようで生活の臭いすらしない。
この界隈は中央区内でも珍しく戦災を免れた下町で、戦前から続く町工場と家々が独特の風情を残していた。隅田川に近く眺望の良い一帯で、バブル期に一斉に地上げ屋の攻勢を食らい、それでも住民が抗い続けた末の風景がこれ。
隅田川の向かいの佃島あたりは容赦なくタワーマンションだらけに変わっているが、この一帯も同じような景色に変わっていても不思議ではなかったわけだ。
昔ながらの長屋が歯抜け状態になってしまっているが、以前なら月島の路地裏で見られるような風景があったのだろうか。
もう一軒、製本工場があった。まだ生活を続けているようで、工場兼住居の横に植木鉢が並んでいた。その向こうは既にマンション街に変わってしまっている。
地上げ屋に相当やられてしまっているものの、この界隈では奇跡的に戦前の街並みがそのまんま残っている。既に廃墟と化しており玄関は板が貼りつけられていた。継ぎ接ぎされた錆だらけのトタン板、木材で組まれたバルコニーは風化しかかっている。
バラック家屋だけではなくコンクリート製の雑居ビルも残っているが、やはり容赦なく老朽化しまくっている。荒廃しきった街並みはいつまで放置され続けているのか定かではない。そして、目の前にあるのは地上げ屋占領軍が置いた立体駐車場。
この湊二丁目界隈、バブル期の地上げ攻撃に次いで、街の再開発計画が迫っている。歯抜け状態の土地をUR都市機構が区画整理した上でマンション街に作り替えようとしている。廃墟同然の街を歩いていると、このようにUR都市機構の事業用地であることを示す看板をちらほら見かける。
URによる再開発計画に反対する地域住民が玄関先に抗議のポスターを貼っているのが見える。「URよ、街を壊すな!」とあるが、既に街が地上げ屋に壊され放題になっている件。
未だに下町の生活がそのまんま残る路地裏。すっかり空き地だらけで土地が開けてしまい、陽の光が容赦なく当たる。遠くに見える高層マンション群は隅田川の向かいの佃島に建つセレブタウン。
再開発計画では、この土地に39階建ての複合ビルを中心にマンション街が建設される計画が立っているそうで、取材当時は業者と土地所有者との取引段階。
長年、開発業者に翻弄されてきた湊二丁目東地区も、ゆくゆくは対岸の佃島のような街と同じようになる運命だ。
歯抜け状態になった地区内の住民は殆ど立ち退いてしまっているようだが、製本工場のリフトが置かれている所を見るとまだ一部では現役で工場が動いているようだ。
かつての湊河岸とも呼ばれていた隅田川沿いには、紙業倉庫が並んでいて平日に来るとリフト車が頻繁に街を走り回っている。この細い路地を行ったり来たりしているようだ。
3階建ての店舗兼住宅。錆びたトタン板と煙突。銀座徒歩圏に存在している風景とはおおよそ見当も付かない。まるで鄙びた漁村のひとコマをそのまま持ってきたかのようだ。
空き地だらけの土地は一部が芝生の公園となっている。近所にセレブ向けのタワーマンションが乱立しているせいか、変わった犬種のペットを連れた飼い主が散歩している姿が妙に多い。
隅田川寄りの民家は比較的地上げ屋の攻撃から耐えているので、割とまともな下町風景が残っている。昔からそのまま続いているような個人の漬物工場もあって、作業中の主人がせわしなく勝手口から出入りしている。
漬物屋の路地に入ると見る事ができる一軒の廃屋の玄関先。表札に書かれているのは昔の京橋区湊町二丁目という地名だ。日本橋区と合併して中央区となる昭和22(1947)年以前の住居表示だ。もしかすると戦前の東京市時代のものかも知れない。まさかこんなものにお目にかかれるとは。
だがあと数年もするとこの地区全体が味気ない高層マンション街と化してしまうのかと考えると虚しくもなる。東京の街の新陳代謝はすこぶる激しい。