南千住一丁目、日光街道沿いにある曹洞宗円通寺。延暦10(791)年創建と伝えられるかなり歴史の古い寺なのだが、訪れてみるとピラミッドのような三角柱状の建物に巨大な金の観音像が建っているというかなり珍妙なビジュアルの寺だ。
かつて円通寺には秩父・板東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったが、安政の大地震(1855年)で倒壊、100体の観音像のうち残っているのは33体のみとの事。
失われた百観音の代わりに、この黄金観音像が円通寺のシンボルになっている模様。
周りが古い木造家屋しかないので結構遠くからでもこの建物が目に付くのだが、どう見ても下町にそびえるピラミッドといった佇まいで怪しさ満点なのだ。
江戸時代には下谷広徳寺、入谷鬼子母神と並ぶ「下谷の三寺」と呼ばれる由緒ある寺なのだが、この建物はどう考えても珍寺のカテゴリーに収まってしまう。
境内に入ってすぐ右手には円通寺の由緒が書かれているので読んでみる。八幡太郎義家が奥羽征伐して持ち帰った48個の賊の首をこの土地に埋めた事が小塚原の地名の由来であると。「骨ヶ原」が「小塚原」となったという説と、どっちが有力なのかよく分からんがどっちにしても小塚原が物騒な地名である事に変わりはない。
円通寺境内の見所は黄金観音像だけではない。上野寛永寺の総門(黒門)が移築されてこの地に残されている。幕末の戊辰戦争における戦いの一つ(上野戦争)で焼け残った門がそのまま展示されている訳だ。よく見ると弾痕が刻まれていたりと結構生々しい。
そんな黒門の裏手あたりに鬱蒼とした森の中に何やら古い墓がずらりと並んでいる場所がある。上野戦争で敗れ命を落とした彰義隊(旧幕府軍側)の墓地である。
寛永寺境内に散らばる彰義隊士の死骸は新政府軍に厳しく回収を禁じられ腐敗に任されるばかりであったが、それを見かねた円通寺の和尚が戦死者供養の許しを得て当地に埋葬した。
彰義隊を撃破した新政府軍の指揮に立ったのは靖国神社参道中央に巨大な銅像が飾られた大村益次郎だ。勝てば官軍負ければ賊軍。しかし「死ねばみな仏」という言葉もある。
彰義隊の墓の反対側には徳川三代将軍家光公ゆかりの「鷹見の松」。まさしく史跡だらけの寺である。
鷹見の松の隣に、小塚原の地名の元となったとされる「四十八首塚」が現在も残されている。
その傍らには「圓通精舎」の文字が刻まれた古い建物が残る。見るからに使われていないようだが。
彰義隊士の墓の裏手に一般の墓地があるが、そこに吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者が遺棄されていた。事件から2年3ヶ月後に逮捕された犯人(1971年12月23日死刑執行)の供述で墓石の下に隠された遺体が発見される。
江戸三大刑場の一つであった因縁の地・小塚原の街を見下ろす黄金の聖観世音像。人の生き死にに絡み様々な情念が渦巻く円通寺の境内から、街に生きる人間の姿を今も暖かく見守っている。