東京屈指のリア充の聖地・お台場なんですが、今のような浮ついた観光地と化す前、まだ「ゆりかもめ」やレインボーブリッジすらなかった頃から唯一この埋立地に存在していた、お台場で恐らく最古の博物館が「船の科学館」だ。
ゆりかもめの車内からも見える博物館の建物は、そのまんま船の形をしていて、フジテレビだの日本科学未来館だのと派手な施設が周りに出来てからもなお存在感を留めている。この船の科学館、今月末で休館となる事を聞いて、以前訪問したにも関わらずこのサイトでレポートを公開していなかったのを思い出した。
日本財団の傘下団体が運営する船舶・海上関連の博物館で、昭和49(1974)年の開館以来現在まで続いてきたのだが、施設の老朽化や3月11日の地震で建物が一部崩落するなどの要因も相まって、2011年9月末で「休館」が決まった。
さすが日本財団の息のかかった施設だけあって入口にある船の科学館の石碑の文字は、昭和政財界のドン・笹川良一氏の名が刻まれている。
日本財団と言えば笹川良一、戦後日本の大物フィクサーとして第一級の人物だが、日本中の競艇場にあるのと同じく船の科学館の敷地内には母親をおぶって金毘羅参りをする笹川氏のご立派な銅像(孝子の像)がデデーンと置かれているのである。お馴染み「世界一家、人類兄弟姉妹」のフレーズもプレートに刻まれていた。
しかしそれだけで終わらないのが笹川良一クオリティ。さらに近くには世界中の子供たちに慕われる優しいお爺ちゃん、人望の厚さを物語るご立派なフルカラー塗装の銅像が建立されております。
さぞかし銅像にされたり石碑を建てるのが好きだったようで権力主義的傾向も見受けられ我々の世代には理解が及ばないが、自身の生前までに資産の殆どはハンセン病の撲滅活動などの社会事業に注ぎ込み、死後は子孫に相続できる程の財産もなかったという。凄いね昭和の日本人は!
船の形をした博物館本館の周囲にも野外展示が多数置かれていて、かなり時代遅れな感じがしない事もないが、当時の最新鋭の船舶だとか、なぜか戦艦陸奥の主砲といった軍事的な展示物まである。
さらに海底探査用の潜水艇(PC-18)といったものも。なんていうかイエローサブマリンな感じですね。
その隣には球状潜水艇「たんかい」。ボディの下半身が透明のアクリル板になっていていかにも海底探査を行う為に作りましたという感じがする。
これらが作られた昭和50年代というのは世界の先進国の間で海底探査が競うようにして行われていたとか。こうした潜水艇の数々も日本財団の資金援助を受けて作られている。
しかしそれ以上に笑ってしまったのがこれ。
昭和43(1968)年に作られた「海底ハウス 歩号I世」である。
あまりにインパクトが大きすぎて思わず全体像を写真に収めるのを忘れてしまった。ご勘弁頂きたい。
これは先程の潜水艇とはまるっきり作られた目的が違っていて「人間が海底で生活するための居住区」という、とんでもない発想のもとで開発された人類の挑戦の奇跡なのである。
この「歩号I世」も日本財団・笹川会長の資金援助を受けて製作され、完成後は沼津沖の海底に沈められ、3年3ヶ月間に渡って居住実験が行われたそうだ。確かに窮屈ではあるが一通りの家財道具や寝る為のスペースが用意されているのだ。昭和の日本人、やることがマジハンパないっす。
海底から地上へと電話をしている笹川会長?のマネキン。「海底での生活も悪いもんじゃないよ、アハハ」なんて声が聞こえてきそうだが、折しもこれが作られたのは大阪万博で日本中が好景気に湧き上がった頃。奇抜な考えや開拓精神が生き、社会もそれを大いに評価していた時代に比べれば今の平成日本の衰退、想像力と精神の貧困っぷりを見て天国の笹川会長もどう思うだろう。
かつての海底ハウスの中に設置されたブラウン管テレビにエンドレスで流れる映像には、実際に潜水服を着て当時71歳の高齢にも関わらず、沼津沖の海底ハウスを訪れた時の笹川会長の姿が映し出されている。40年も前の出来事が、今よりも新鮮に見えてしまうのは何故だろう。
のっけから豊富過ぎる屋外展示に既にお腹いっぱいになった感があるが、メインコンテンツはあくまで本館の建物。そこに入ろうとしたら、随分見慣れない模型の自動販売機があった。今どきのガチャポンでは見られないレトロ感。車とか戦艦とか戦闘機とか子供が喜びそうなものが色々ありますよ。
「だめ」「よい」取り出し口の注意ステッカーのイラストがどこかシュールです。
アスペクト
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