1990年代、西武新宿線「中井」にあった幻のミャンマータウンの痕跡を求めて歩く

新宿区

四谷・淀橋・牛込といった旧区名から成り立ち、普段意識している「東京都新宿区」からは些か離れたイメージのある街、西武新宿線の「中井」。古くは染物工業の街として栄え、漫画家・赤塚不二夫ゆかりの地でもあり、現在は都営大江戸線の駅も出来るなどしてマイナーながらもそこそこの都心近接型住宅地となっている。

そう言えば以前の記事で「高田馬場のミャンマータウンが以前中井にあった」という事に触れていた。長期にわたって続いた軍事政権下のミャンマーから難民として日本に渡ってきた人々が90年代から居を構えだしたのがここ新宿区中井という街である。

中井にあったミャンマータウンとは

以前の高田馬場ミャンマータウンの記事でも触れたが、中井にはミャンマー人僧侶の運営していたミャンマー寺院がこの妙正寺川沿いのマンションの一室にあり、それが日本にいるミャンマー人社会の拠り所となっていたのである。00年代にミャンマー人コミュニティはより交通便の良い高田馬場に移り、今ではその面影もないという話だったが、やはりその痕跡くらいはなかろうかと探しに来た。

さっきの断崖絶壁長屋とは反対の西方向の妙正寺川沿いを歩いて行く事にしよう。相変わらず廃れた建物が多く「駅前徒歩0分の場末」が見られる西武新宿線沿線の駅前風景としては安定の場末っぷり。

車の通行も難しいほどクソ狭い道幅の川沿いの道だが、西武新宿線中井駅の改札は駅の東側にしかないので、駅の西側に用事がある通行人は必ずここを通る羽目になる為、通行人の数は非常に多い。ただでさえ狭苦しい駅前が妙正寺川があるせいで余計に狭くなっているのだ。

川沿いには共産党のポスターがベタベタ貼りまくられている下町らしい民家もあるっちゃあるのだが、ミャンマーの黄色と緑と赤の国旗はどこにも見当たらない。

一昔前にミャンマー人がフードショップやレストラン、寺院などを開いていた幻の「中井ミャンマータウン」があったというのが、この一画。今では店があった所もすっかりシャッターを下ろしたまま静まり返っている。どこにも面影はありませんでした。

「トップ」という屋号のミャンマー料理店があったと思しきマンション(サンハイツなかい)一階部分の店舗。今は空きテナントになっている。ここにあったミャンマー料理店も屋号やオーナーがコロコロが変わって、それから高田馬場に引っ越したらしい。

しかし何故、中井の街からミャンマータウンが突如姿を消したのか。それは最初に日本にやってきたミャンマー人が政治的理由で亡命してきた難民であった故の事だった。

90年代にミャンマータウンとして勃興した中井を取り上げるメディアが増えたせいで、入国管理局の監視の目が厳しくなり、殆どが不法入国のオーバーステイだった中井のミャンマー人が次々取り締まられるようになったという。事情は違えど今で言う蕨のクルド人みたいなもんだったんすね。

入管の取り締まりを避ける為、中井に住んでいたミャンマー人は新天地を求めて近くの高田馬場に移動、その事で中井からミャンマー人がごっそり消えたという顛末らしい。

ちなみに同じ仏教国のミャンマーでイスラム教を信仰する少数民族のロヒンギャも国内で迫害された末に難民として国外に亡命しており、その一部は日本に流れ着き群馬県館林市あたりに集住しておりますが…

それにしても妙正寺川にいきなり自転車が投げ込まれてるんですが、この界隈の人達ってマナーとかその辺の感覚はどうなんでしょうね。

中井のDIY過ぎるコリアン風味なケンチャナヨ物件

ミャンマー人は街から居なくなったが、一方で韓国人が妙に多い気がするのが中井という街。こちらの妙正寺川沿いの小さな3階建てのマンション、外観がかなりDIY気味で随分危なっかしい印象があり目につきやすい。

特に外付けの階段を登った先の屋上にある見るからにDIYでこしらえたとしか思えない工事用足場で組まれたデッキは何なのだろうか。あまつさえ屋根とテーブルと椅子が置いてあるように見えるが、まるで成田空港三里塚闘争の団結小屋顔負けの奇抜っぷりに腰が抜ける。建築基準法的にはどないやねんこれ。

その名も「ユンハイツ」というそうですが、この大学の文化祭的ノリの看板といい随分オーナーの個人プレイが暴走気味となっているが要は韓国人が建物の持ち主という事でしょうか。なるほど。

一階には怪しげな佇まいのパソコン修理店もあるんですが、パソコン修理に加えて輸入服飾品や帽子の販売、英会話などなど商売の幅がやけに広いのが気になる店となっている。全体的にケンチャナヨ感全開の物件となっておりますが、果たして入居者は募集しているんでしょうか。


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