茗荷谷・小日向の九龍城砦「清華寮」と茗荷谷住宅

年がら年中SMプレイ状態の「しばられ地蔵尊」を拝観した後、引き続き茗荷谷駅界隈を散策する。
茗荷谷には寺も多いが、昭和初期に当時統治下だった台湾からの学生を受け入れる為に台湾総督府によって建設された「清華寮」というミステリアスな廃墟も残っていたりと色々怪しい場所が隠れている。

しばられ地蔵の林泉寺の近所には拓殖大学文京キャンパスがある。戦前から台湾開拓の人材育成のための教育機関として成り立った学校で、海外への人材の輩出や留学生の受け入れに積極的だそうだ。



茗荷谷駅から続く道は拓殖大学前までにかけて緩やかに下り坂となっている。茗荷坂という名前の坂だが、江戸時代にこの周辺でミョウガが栽培されていた事に由来している安直なネーミングである。

拓殖大学正門前にも鬱蒼とした森の中に無縁墓が積み上げられた光景を見る事が出来る。先程の林泉寺ではなく、深光寺というもう一軒の寺のものだ。

深光寺の境内に入る。本堂はさほど古さは感じられないが、1639(寛永16)年に開かれたというのでやはり古い寺である。

深光寺には「南総里見八犬伝」の作者で知られる江戸時代の読本作者・曲亭馬琴(滝沢馬琴)の墓があることで有名。江戸時代には珍しく文筆業だけで飯を食う事が出来た日本初の人物とも言われる。

そんな深光寺や拓殖大学の前から小日向台方面に続く道に入る。茗荷坂を降りきった所で再び登り坂が始まる。この付近の土地もすこぶる起伏が激しい。

その登り坂に差し掛かると、左手が鬱蒼とした雑木林に変わる。この向こうに廃墟となったまま佇む「清華寮」がそびえているはずだが、この場所からではどうやっても建物の姿を見る事が出来ない。

雑木林の中をよく見ると、実は清華寮の敷地に続く抜け道が存在している。しかしどう見てもこの奥に人の生活があるようには見えない荒れた獣道と化しているのだ。
そして獣道の入口は「火災発生により危険なため、敷地への立ち入りを禁じます」と書かれた札とともにロープで封鎖されている。

坂を登り切ると清華寮の正面玄関が控えている。老朽化しまくったコンクリートの門柱だけが歴史を偲ばせるが、傍目から見ると何の土地なのか表からではさっぱり理解不能になっている。

その敷地の中を見ると何故か住民か何者かが置いた廃車が野ざらしにされている他、ガレージ用のテントと思われる構造物が数ヶ所そのまま置かれているのが見える。

清華寮の建物自体は隣の敷地から辛うじて木々に阻まれながらも輪郭だけ見る事が出来る。
昭和初期に台湾総督府の財団法人・学租財団によって作られた留学生寮が発端だった清華寮だが、戦後は台湾総督府が消滅、戦後のドサクサで所有者不在の状態となり固定資産税の課税もできず長らく「九龍城砦」状態となっていた。実際に地元では「オバケ屋敷」とも呼ばれている物件だ。

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清華寮の敷地は元が国有地だったため、国への土地返還訴訟が行われるなどしたが、2003年に地裁判決で財団法人進徳奨学会(これも活動実態がない団体)の所有権を認め2006年に登記済。しかし国の言い分では奨学会の不法占拠であるといい、奨学会と入居者に明け渡し訴訟を起こすなどして非常に話がややこしい。
ゴタゴタが続く中で2007年7月に住人のタバコの不始末で火災が発生し住人2人が死亡、住民全員が焼け出され、それ以後は土地建物が閉鎖されて今に至っている。坂の下の立入禁止札も関東財務局が立てたものだった。
なお火災前には台湾・中国・日本人、約50人の生活者がおり、台湾人系と中国人系で別々に自治会を運営、敷地に月極駐車場を置いたり、部屋は又貸しされまくりで三代続けて生活を送る世帯がいたり生活保護受給者がいたりと凄まじい状態だったようだ。

実は清華寮の隣にも一棟の団地が残っているが、こっちも清華寮に負けず劣らず廃墟のままほったらかしにされていてヤバイ。蜘蛛の巣が張り巡らされて雑草が伸び放題になっている。

団地の入口は見事にベニヤ板でみっちり塞がれていて中に入る事も出来ない。ちなみに地図を見ると「東京都住宅供給公社茗荷谷住宅」と書かれている。

4階建て16世帯が入る住宅は、清華寮に比べるとはるかに築年数が浅いにも関わらず廃墟同然で放置されているのでミステリアスなことこの上ない。
しかし本当に廃墟なのかと思ってベランダを眺めていたら驚くべき光景を見てしまった。

…まだ1階の一室に人が住んでいるらしく、洗濯物が干されていたのである。これは一体どういう事なのだろうか。清華寮同様の複雑な事情でも隠れているのかも知れない。茗荷谷住宅と清華寮の現状を詳しくご存知な地元民の方からの情報を待つ。
参考ページ
清華寮

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