今で言う所の新宿区若葉二丁目、三丁目、南元町一帯はかつて「鮫河橋」という地名で呼ばれていた場所だ。大きく切り込んだ谷戸地が南側から伸びていて、谷底には鄙びた下町の商店街、その両側を寺町で覆い尽くされた、一見すると独特な空間だ。
この鮫河橋、上野の下谷万年町、浜松町の芝新網町と並んで江戸時代から戦前にかけて東京で「三大貧民窟」の一つに数えられていたという暗い歴史を背負っている。
貧民窟と聞いて黙っていられない東京DEEP案内取材班は、かつてのスラム街だった名残りを求めて四谷鮫河橋を幾度となく訪れた。もちろん現在はスラム街という事もなく、むしろ都心の一等地にあって高級マンションが立ち並ぶような場所となってしまっている。
街を探索する前に、四谷の総鎮守である須賀神社を訪れた。
四谷鮫河橋の街並みを見下ろすような形で社殿を構える須賀神社の男坂。高低差のある谷戸地を一気に貫く直線階段が眼前に迫る。最近は映画「君の名は」ブームとやらで聖地巡礼に来る観光客もぞろぞろ参拝しているらしい。
その上に登ると、若葉二丁目商店会を挟んで反対側の東福院坂(天王坂)の上まで広々と見渡せるのだ。起伏の激しい地形を視覚的に実感出来る。
須賀神社の境内はさほど大きくはなく、地元の神社といった感じの所だ。須佐之男命を主祭神としていて、この一帯の須賀町の地名も神社から来ている。
須賀神社の拝殿は神社の外の商店街からもよく見える。なぜなら境内のすぐ脇が崖になっているからだ。
火消しの「く組」の梯子塚、その向こうには崖下の若葉町の住宅地が広がっている。その向こうは新宿通り沿いのマンション街。
四谷総鎮守だけあって境内の各所に歴史を感じさせる。須賀神社は寛永11(1634)年の創建で、元々は赤坂一ツ木村の鎮守として麹町清水谷に置かれていた稲荷神社が、後に現在地に遷座、牛頭天王(須佐之男命の別名)を合祀して四谷天王社と言われていた。
正面の拝殿は戦災を受けて全焼、再建されているが、他はおおむね戦前以前の状態で残されている。
境内左側には各町名が書かれた神輿庫がある。四谷一丁目から四丁目まで、荒木町、三栄町、左門町と四谷地域の地名が書かれているが、すっかり某三色旗団体に乗っ取られた「信濃町」の神輿もあるようです。
須賀神社のすぐ向こうは信濃町。なんらか神社の鳥居が結界のように見えなくもない。やけに公明党のポスターが多いのもそのせいだと思われるが、よく見ると共産党のものもかなり多い。つまり根っからの下町ゾーンなのだ。
神社を出たすぐ左側からの階段は女坂と呼ばれる。男坂に比べると段差も踏み面もゆとりがある。階段が途中で折れ曲がった先の崖下に妙行寺が見える。
女坂の途中の踊り場。須賀神社の土台となる城壁のような頑丈な石垣が見受けられる。この石垣も創建当時のものがそのまま残っているのかと思う程古い。なかなか迫力がある。
この石垣の部分に、今ではかき消されてしまった「四ツ谷鮫河橋」の地名を記す石碑が残っている。眼下の谷戸地に広がる住宅地はかつて鮫河橋谷町と言われていた。
東京最大のスラム・四谷鮫河橋谷町があった街…新宿区「若葉・南元町」


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