板橋本町商店街の一画に「縁切榎」という物騒な名前の樹が立っている。この樹の下を嫁入り行列が通ると必ず縁が切れてしまうという言い伝えが広まり、江戸時代から悪縁切りのまじないが行われてきた「ある筋」の方々には非常に有名な場所。
「縁切り」のまじないと言えば京都の安井金比羅宮が超有名である。神社の絵馬を見ると他人の個人情報丸出しで恨みの言葉が容赦なく刻まれているという、かなり恐ろしい光景が見られる場所だ。
そんな「縁切り神社」が東京の片隅にあったとは。縁切榎が何とも不思議な気になる樹ですから見に行きましたよ。
最寄りの板橋本町駅から旧中仙道沿いの商店街を歩いて来ると約5分くらいで縁切榎の前に着く。なんと交差点の名前にも「縁切榎前」の名称が付けられているのだ。
縁切榎の由来について記された看板。縁切りの伝説を恐れて榎の樹を避ける迂回路まで作られたりしたとか、男女の悪縁切り、断酒、難病治癒といった願い事の際には榎の樹皮を削ぎ取り煎じて飲ませるという民間信仰も流行ったとか。
しかし肝心の榎の樹には樹皮がこれ以上削ぎ取られないようにバリケードがぐるぐる巻かれているのである。枯れてしまっては元も子もない訳である。
その傍らでは先代の縁切榎が石碑の中にコンクリート詰めにされていてちょっと可哀想な姿になっている。初代は明治の大火で焼けてしまい、二代目は昭和40年代に切られて、現在の縁切榎は三代目の樹だという。
縁切榎のそばには小さな祠がある。もともと縁切榎は榎大六天神社の御神木で、祀られている大六天は神道の神ではなく仏教の神(天魔)。その為明治の神仏分離で破壊される恐れがあったが、こっそり祀っていただけだったので今でも残っているとか。
初代の榎が槻の木が並んで生えていた事から「エンツキ(縁の尽き)」と言われていた。さらに現地周辺は「岩ノ坂」という地名で、縁切榎の存在もあって結婚する人間が避けて通っていた事から「イヤナ坂」とも呼ばれていた。
板橋宿と言えば吉原と並ぶ遊郭があったり、新選組の近藤勇が処刑された事で有名な板橋刑場の存在もあるし、昔から随分な忌み地だったわけだ。
ちなみに板橋の岩ノ坂は明治時代から戦前までスラムとして知られていた場所で、昭和5(1930)年の板橋貰い子殺し事件が大々的に報じられ広く知られる所となった。戦災で街が焼失して、かつてのスラム街の面影はもう残っていないが、往時の様子は当地出身のノンフィクション作家・小板橋二郎氏の手記「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」で知る事ができる。
縁切榎の祠の脇に絵馬掛け場が置かれている。それほど広くはないスペースに、これでもかという程絵馬が掛けられているその一つ一つを眺めていくと、やはり京都の安井金比羅宮と同じ、悪縁切りの願掛けが書き記されている。
その殆どが人間関係の悪縁切りに終始している。元彼、元旦那、浮気相手といった男女のいざこざに留まらず、親戚や嫁姑との争いまで、枚挙にいとまがない。
あと結構多いのがご近所トラブルに基づく悪縁切り祈願の数々。マンションの隣の部屋の住人に向けた悪意が剥き出しになっている。タバコは分かるんですが、料理一生するな!とか言われましても…ね?それはそうと、相手の住所まで絵馬にハッキリ書くのはダメだろ。
よくよく見ると殆どが女性の書いた願掛けであることに気が付く。京都の安井金比羅宮でもそれは全く同じだった。こういう事をするのは何故か女ばかり。不思議なものである。
それで、やっぱりこんな意味不明な被害妄想カキコまで見られるのである。ああ恐ろしい。それでも悪縁切りの神にすがる人々の姿は決して消える事はない。人のわがままをいちいち聞く立場の神様も大変そうであります。