「生麦事件」と言えば、横浜開港の歴史の中でも強烈に残る、近代日本最初の国際問題だった訳だが、その事件現場の地には「生麦事件発生現場」が記された看板が建っている。
生麦事件は文久2年、1862年の話。横浜から川崎大師に向かう途中、東海道で騎馬を楽しんでいたイギリス人の集団が、通りがかった薩摩藩の大名行列を何のことか分からずに馬から降りなかった為に斬り殺されたという事件。友人の伝手で観光目的で来日していた上海のイギリス人商人・リチャードソンがここで斬られたのだ。
しかし今となっては何の変哲もない住宅地でしかない。戦前の話ですら現実感が無いのに150年の話が出てきても今どきの日本人にとっては全く違う文明の出来事のようにも思える。
なお、事件の記念碑がある場所はここから少し離れている。
途中には京急生麦駅の入口となる商店街があるが、やはりどこか寂れた感じが強いのはこの界隈の街に共通している。
第一京浜沿いに子安方面に進むと生麦病院という小さな病院がある。どこぞの田舎町の小さな診療所のようである。
その先には、いつ潰れたのか見当も付かない古いガソリンスタンドの廃墟。なぜここまで放置されまくっているのだろう。東京と横浜という2つの都会に挟まれたブラックホールのようなエリアだ。
この周辺にも高速道路の建設に反対する住民運動のプレートが掛かっている。現在の国道1号から産業道路、首都高方面へのバイパス道路・環状道路北線(岸谷生麦線)が建設中で、首都高が横浜市の委託を受けてトンネルを掘りまくっているのだ。数年後には風景が一変しているかも知れない。
そんな場所に「生麦事件碑」が置かれているのだ。先程の場所で薩摩藩の大名行列に無礼をはたらいたとして斬られたイギリス人商人のリチャードソンは、斬られた傷口から内臓が飛び出たまま馬に跨ってここまで逃げてきたものの力尽きて落馬したという。そして後を追ってきた薩摩藩士・海江田信義によってとどめを刺された。
ちなみにリチャードソンの墓は山手の外国人墓地にある。
その後は薩摩藩とイギリスが戦争する(薩英戦争)などの顛末となったが、最終的には賠償をした上で和解に至った。事件の記憶を留める為に1883(明治16)年に石碑が作られ、その当時のまま残されているのだ。
かれこれ石碑が出来て120年近くが経つため、老朽化が激しく、線香を炊く事はご遠慮下さいと注意書きがある。確かに物凄く古い。
この事件碑の両側に古い民家があったようだが取り壊されて現在は青い鉄柵に覆われていて実に殺風景である。この場所に都市計画道路が建設されるとのことで、生麦事件碑はどうなることやら。
ついでに京急生麦駅近くに「生麦事件参考館」という施設もあるので歴史を深く探りたい場合は立ち寄るべきだ。
実はこの事件碑の真後ろにはキリンビール横浜工場(キリン横浜ビアビレッジ)の広大な敷地がある。ビールだけに生麦なのか。出来すぎである。ビール工場と言えば見学や試飲が出来る訳で酒飲みにはたまらん内容だがこの日はあいにく休業日だった。残念。