日本最大級のLGBTタウンとして名を馳せる街「新宿二丁目」。この場所にはゲイをはじめとしたあらゆる性的マイノリティーが集う、LGBT文化の発信地でもある。
しかしそんな街の一画にかなり広大な境内を持つ寺が存在している。「太宗寺(たいそうじ)」である。もともとこの土地は内藤新宿という宿場町で、それ以前はこの太宗寺の門前町だった。つまり新宿の町の歴史の生き証人そのものと言える寺なのだ。寺の創建が慶長元(1596)年というから確かに古い。
内藤新宿は品川・千住・板橋と並ぶ江戸四宿の一つに数えられる、由緒ある宿場町の一つだった場所で、今の新宿の街の原型とも言える場所だった。
今も太宗寺は新宿の歴史を語るのに外せない寺で、そのせいか境内には歴史散歩に興じる爺さん婆さんの姿がやけに多い。言うならば新宿の街の成り立ちがこの寺からあった訳で確かに重要な場所のはずだが、あれだけ人大杉な新宿駅前の雑踏を見比べると、全く人の姿がない。浅草寺や柴又帝釈天のような明るい観光地とは異なり、どこか陰鬱な空気が漂っている。
境内に入ってすぐ右手にドーンとでかい地蔵菩薩坐像があぐらを掻いて座っている。江戸六地蔵の一つ。すぐ背後にはマンションの建物が迫っていていささか迫力に負けてしまっている。
隣の閻魔堂には江戸時代から庶民の信仰を集めてきたという閻魔像と奪衣婆像が収まっているが、普段は格子戸が閉ざされていてちゃんと見る事が出来ない。
奪衣婆は「しょうづかの婆さん」と呼び親しまれ、内藤新宿で働く飯盛女(遊女)達や、妓楼の商売繁盛祈願に厚い信仰を受けたとされる。三途の川の入口で死者の服を剥ぎ取る奪衣婆を、服を脱ぎ女の裸で商売する妓楼が存在を重ね合わせて信仰していたのだろう。
LGBTタウン化してしまった現在の新宿二丁目では、太宗寺の境内はただ静かな空間となっている。すこぶる人気がない模様。
太宗寺は内藤新宿の地名の元となった信濃国高遠藩内藤家の菩提寺でもあり、境内には内藤正勝の墓が現在も置かれている。
境内裏手の墓地に入ると殊の外広い。周囲は完全にビル群に囲まれて、太宗寺の境内だけが昔の趣きを残している。ちなみに墓場の裏にある太宗寺前公園も、場所柄からして有名な発展場であるが、工事中のため閉鎖されていた。
墓地に入ってまっすぐ正面突き当たりの場所に内藤正勝の墓がある。太宗寺は徳川家重臣である内藤正勝の葬儀を行った縁で内藤家の菩提寺として発展して今日に至る。
そんな内藤正勝の墓地の後ろに浅草や上野でもお馴染みの「24会館」の看板と建物がちらりと見える。ここも新宿二丁目におけるLGBT文化を物語る男性専用サウナであるが、ここでは詳しく触れない事にする。