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江東区東陽町に吉原に次ぐ東京第二の遊郭があった…赤線地帯・洲崎パラダイスの街「深川洲崎弁天町」を歩く 

昭和33(1968)年の法律施行まで日本各地に存在した「赤線地帯」。それは吉原や真金町のように江戸時代から続く遊郭の成れの果てであったり、玉の井や鳩の街のように戦後になって私娼窟を特例的に営業を許してきた場所であったりと様々である。

東京の遊郭と言えば吉原が最も規模が大きいが、吉原に匹敵する程の巨大な遊郭があったのが今の住所で言う江東区東陽一丁目、昔の地名で言うと「深川洲崎弁天町」という場所だ。

洲崎遊郭の成り立ちは、明治20(1887)年に帝国大学校舎を新築するために当時存在した根津遊郭を風紀上の理由で立ち退かせて、東京湾を埋立て作られた洲崎の土地に翌年明治21(1888)年に移転させたのが始まりと言われる。

最盛期の大正末期には300店舗が立ち並んでいたといい、吉原に匹敵する規模だった。洲崎遊郭は戦時中に空襲により壊滅してしまうが、戦後は土地の東半分だけが「洲崎パラダイス」として復興し、赤線廃止までの13年間、栄華を極めていた。そんな「洲崎遊郭跡」への最寄りは地下鉄東西線木場駅の2番出口。

木場駅周辺はその地名の通り、深川運河が街中に張り巡らされた中が貯木場になっていた場所で、現在は運河の多くも埋め立てられ貯木場も沖合いの新木場に移転してしまっているが、洲崎遊郭もまた運河に囲まれて「遊郭の島」となっていた。

駅を降りたら永代通りの沢海橋を渡り東側へ行く。南に折れて弁天橋を渡ると洲崎神社もあるが、そちらは後回しにする。

永代通りの南側から洲崎川緑道を挟んだ向こう一帯が洲崎遊郭跡となるのだが、大門通りへはこの先の東陽三丁目交差点から行く事になる。

東陽三丁目交差点を南に折れると、幅広道路が南に向かって伸びている。これが大門通り。埋め立てられた洲崎川の上に架かる洲崎橋の名残りで道がアップダウンしている。

この洲崎橋が「洲崎パラダイス」の玄関口で、目の前に交番があって子供が出入りしようものなら追い返されていたとか。

洲崎橋近くには大門通りの表記が残っている。現在の洲崎遊郭跡は殆どがマンションやアパートだらけの何の変哲もない住宅街に変わってしまっている。吉原のように手を変え品を変え風俗街として続いている場所もあるが、洲崎は全く街が変わってしまった。

戦後の「洲崎パラダイス」の面影を残すものも殆ど無くなっているが、辛うじて洲崎橋のたもと(北西側)に古いバラック酒場が密集しているのが残っている。かなり間口の狭いバラバラの建物に開き扉の玄関だけで幅いっぱいという、とんでもない建築物だ。

おそらくこれらのバラック酒場も、洲崎パラダイスが現存していた時から存在していたものであろう。遊郭の入口で遊びにやってきた男どもに酒を振舞っていたものと思われる。

洲崎橋を渡って、遊郭跡の「シマ」に入った途端に現れる真黄色の巨大な看板が香ばしい。なぜこんな場所に建ててあるのだろう。

そこには北方領土問題に関する標語が書かれている訳だが、見た感じ公的機関が置いたものとは思えない。地元の右翼団体が設置したものであろう。

看板をよく見るとボールペンで薄く「右翼はなんで日本人ではないのですか」「右翼はチ◯◯」などと落書きされている。

その傍らには皇太子殿下御降誕記念の石碑があり、その背後には日本国旗が掲揚されている。ちなみに石碑の脇には「洲崎三業組合」の名前もある。

洲崎橋を渡った先から大門通りが南開橋まで真っ直ぐ走っているのが見通せる。この一帯だけ片側三車線分の不自然に広い道路となっているので分かりやすい。しかしそれ以外は完全に普通の住宅街である。

かつての洲崎遊郭の中心あたりに建つアパホテル、以前は「ホテル東陽」だった。

ここが洲崎屈指の大遊廓「本金楼(本金邑楼)」の跡地である。

およそ300メートル程の大門通り。洲崎遊郭があった頃は南開橋はなく、目の前に海が迫っていた。現在では南開橋の向こうにまで住宅街が広がって、一般住民が頻繁に行き来している。

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東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
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