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軍港の遊里の面影は何処へ?横須賀市上町「柏木田遊郭跡」を歩く

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訪れた遊郭跡は見た目にも一発でそれと分かる。県道から南に一本並行して不自然に広い街路が150メートルくらい敷かれていて現存しているのだ。この大通りの両側にかつては17軒の妓楼が立ち並んでいたという。横須賀三遊郭のうち唯一の公娼地であった柏木田は主に軍人相手の遊郭だった。

この柏木田遊郭は明治21(1888)年の大火で麓の大滝町にあった遊郭が丸焼けになってしまい翌年に代替地として高台にあった柏木田に移されたのが始まり。当時の横須賀刑務所の囚人を使った刑務作業の一環でこの付近の山中を開墾させて整備されたものらしい。

遊郭として栄えたのは戦前の話で、特に関東大震災の被害が大きかった為、震災以後は安浦や皆ヶ作が栄えこちらは寂れ気味になっていたようだ。そして戦後には赤線に移行するも昭和33(1958)年の売防法施行であっけなく地区の歴史に幕を閉じるといった所か。上町三丁目の住所と化した今でも柏木田の地名は現在でも町内会の名前として使われている。

現在は周囲と同じく鄙びた住宅街に変わっていてその手の店らしきものは全く見かける事もない。今はスーパーになっている敷地が昔はソッチ系の店だったくらいか。

ボロアパートの壁に掲げられた英会話スクールの看板。こんな所にも生活の中にアメリカが溶け込んでいるのが横須賀という土地なのであります。しかし本当にこんなボロアパートで授業してるのだろうか。

凄まじく貧困の匂いを漂わせるアパート。それでもまだ廃墟になっていないらしく住民のチャリンコや原付バイクが置かれている。

遊郭跡のメインストリートから一本裏側に入ると古く煤けた住宅街が広がっている。結構なトタン率の高さ。ちなみにこの路地裏にかつての遊女の信仰を集めていたであろう穴守稲荷神社もあるのだが写真を撮り忘れていた。

遊郭跡の大通りの中程にそびえる「福助ホテル」。ここが柏木田遊郭の名残りを唯一残していた建物である。遊郭時代は「福助楼」の名前で商売しており売防法施行後は転業旅館として細々やっていたようだ。

建物の前には屋号にもなっている「福助」マークが刻まれている。横須賀出身で母親の生家が柏木田遊郭の藤松楼だったという作家・山口瞳の自伝小説「血族」はこの柏木田遊郭を舞台にしておりこの福助ホテルも登場する。

米軍基地の街らしくホテルの看板も英語併記。やっぱり利用客はアメリカ人が多かったんでしょうかねえ。

しかしホテル自体は数年前から営業休止してしまっていて玄関ドアは閉ざされたまま。一応ビジネスホテルなのだがこのアプローチは転業旅館ならではの趣き。うん、こういう怪しい宿がとても好きだ。

「お客様各位 本日より休業させて頂きます 福助ホテル」本日って…一体いつから休業していたんだ?!

野次馬根性全開でガラス扉の中を覗いてみる。古びてはいるがかなりしっかりとした建物で内部には喫茶店も併設されていたらしい。まあなんというか勿体無い。閉鎖する前に来たかった。

そしてこの福助ホテルの建物は2012年7月にとうとう解体されてしまった。地元の人の情報によると最後の数日はお別れのライトアップもしていたという。この福助さんには二度と会えなくなってしまったのだ。

福助ホテルの建物から脇の路地に回りこむと勝手口らしき場所を見る事が出来た。こっちもいかにもカフェー建築風味な玄関口である。

しかも足元には豆タイルがびっしり。赤線地帯の情緒に満ちた作りが見られるのはもはやこの建物くらいか。人が住んでいる気配もないしこっちもいつ壊されるか分からんけど…

洲崎とか玉の井もそうだけど古い建物がここ一、二年でどんどん壊されまくっている気がする。やはり東日本大震災のせいだろうか…柏木田遊郭跡も例に漏れず、街の歴史は急速に塗り消されて行くのであった。


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東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
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