どうぞ、お好きなSNSで拡散して下さい

東京最大のスラム・四谷鮫河橋谷町があった街…新宿区「若葉・南元町」

>5ページ目を読む

戦前までは東京市中最大のスラム街と言われてきた場所だが、隅々まで見渡すと未だに独特の地形や家々にその名残りが垣間見えた鮫河橋谷町もとい、新宿区若葉二丁目、三丁目界隈。このごくごく狭い谷間の土地に最盛期には約1400戸5000名もの貧民が流入していたと言われる。

そんな住宅街を後に、最後に谷筋を行く道の終着点まで出て行く事にした。鮫河橋谷町は赤坂迎賓館に面する池と、その奥の谷戸に広がる低湿地で、池に注ぐ鮫川に架かっていた橋を鮫河橋といい、それが地名の由来だ。

谷筋の道の終点にはJR中央線の高架が走っている。信濃町~四ツ谷の間である。鮫河橋谷町のスラム街が現役の頃は既に鉄道があった。

昭和15(1940)年に開催される予定だった紀元2600年記念日本万国博覧会の計画の折、外国の客に電車の窓から貧民窟が見られるのはいけないと鮫河橋谷町のスラムが取り壊される話もあったそうだが、戦時中の事情もあって万国博は中止、結局取り壊される事もなかったという。

既に明治時代には行政によるスラムクリアランスとして土地の買い上げ、その後も大正期の関東大震災などでスラム街の大半は消滅していたという。

中央線のガード下には「鮫ヶ橋通ガード」という名前が付いている。鮫河橋ではなく鮫ヶ橋と表記がまちまちである。鮫ヶ橋通とは先程通ってきた谷底の道を言うのだ。

鮫ヶ橋通ガードを潜った先は南元町に住所が変わる。この「南元町」の地名も、鮫河橋南町と鮫河橋元町の「南」と「元」がくっついた地名である。みなみもと町公園の前に、鮫河橋の地名の由来を示す「せきとめ稲荷」がある。

「せきとめ稲荷」とはこれまた変わった名前の神社だと思う訳だが、昔に鮫河橋があった鮫川の下流に紀州藩屋敷を作るにあたって川を堰き止めた為、その堰を守る目的で神社を作ったそうだ。紀州藩屋敷は現在の赤坂御所である。

神社はとても小さな祠のような体裁である。うっかり通り過ぎてしまいそうになるが、鮫河橋の町の歴史を知るには欠かせない。

昔この付近にあった池の周りの木の枝に名前年齢を書いた紙を水引で結びつけて咳止めのまじないが盛んに行われていた。「堰止め」と「咳止め」を掛けた風習である。現在では鮫川も鮫河橋も、人々が願掛けをしていたという池も存在しない。

「鮫ヶ橋せきとめ神」と真っ赤な文字で書かれた石碑。江戸時代の話ならば咳がすぐさま命取りになるのは当たり前の話で、ましてや東京市中第一の貧民窟の中にあっただけに、近代まで咳止めの願掛けが熱心に続けられてきたに違いない。

神社の片隅に「四谷鮫河橋地名発祥之所」と書かれた石碑が残っている。

せきとめ稲荷の左隣にももう一つ、古びた祠が置かれている。地味に賽銭箱が用意されていて、拝みに来る人が時々いるようだ。

神社を取り囲む塀には鮫河橋の歴史とせきとめ稲荷に付いて述べられた新聞の切り抜きや解説がある。地元住民が置いたものであろう。

永井荷風が記した「日和下駄」にあった火避地が現在のみなみもと町公園の辺りだったと言われている。この小さな神社の他は、小奇麗な公園と化しており、かつての面影はもうどこにも残っていない。

目の前には赤坂御所と迎賓館の広大な敷地と、四ツ谷から権田原に下る鮫河橋坂。歩道を行き来してたま見かけるのは、学級崩壊がマスコミに喧伝されて災難な学習院初等科に通う貴族もしくは成り上がりDQNの子供達。男女問わず指定の黒いランドセルと制服に身を包んでいる。

そこから四ツ谷駅方面に坂を登ると、皇族もお通いになられる天下の学習院初等科の建物がある。

一方で鮫河橋谷町のスラム街の系譜を辿るかのように、明治時代から貧困や家庭離散で育ての親を失った孤児を受け入れる為に建てられた「二葉南元保育園」「二葉乳児院」が鮫ヶ橋通ガードの前に現存している。

何も知らない幼子が同じ街の同じ場所で貴族と貧民に隔てられている、四谷鮫河橋はそんな冷酷な社会構造が一度に拝める、実に因縁深い場所なのだ。


東京最大のスラム・四谷鮫河橋谷町があった街…新宿区「若葉・南元町」

The following two tabs change content below.
東京DEEP案内の管理人です。2008年の開設以来、首都圏一都三県の街歩き情報を淡々と記録し続けております。いわゆる日陰者的物件、観光地にもならない場所、ちょっとアレな地域を見物・考察する事を趣味としております。2017年6月15日、単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を発売。
トップへ戻る
Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.