ヨコハマの異界・横浜市根岸共同墓地 (2)

横浜市中区大平町と大芝台に跨り、米軍根岸住宅に隣接する丘陵地にある「横浜市根岸共同墓地」。そこは横浜市内で指折りの共同墓地でありながら、その存在すら広く知られていない。そしてネット上ですら断片的な情報しか出てこない、非常にオカルト的な要素の強い墓地だ。
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この根岸共同墓地の誕生は横浜開港から間もない明治10(1877)年に遡る。ただの漁村でしかなかった横浜が開港によって都市開発が始まるやいなや、東京やその他の都市から沢山の移住者が集まり人口が急増すると墓地のキャパシティが追いつかなくなった。


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そこで当時根岸村の相沢と呼ばれていた今の土地に根岸共同墓地の元となる「相沢共葬墓地」を造成した。その後の明治22年(1889年、横浜市制施行の年)に管理が根岸村から横浜市に引き継がれて、現在に至る模様。この相沢という地名は現在使われていない。
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同じ理由で明治初期に造成された横浜市の墓地としては久保山墓地があって、ここよりも規模が大きい。ちなみに根岸共同墓地の近くにある4つの寺も明治末期に移転してきたものだ。それにしてもこの墓地の荒れっぷりは尋常ではない。別に大地震で被災した後の写真などではない、年がら年中こうなのだ。
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そんな訳で意外と歴史の古い根岸共同墓地には、明治大正年代の遠い昔に埋葬された人々の子孫が分からなくなって、あちらこちらに倒れたままの墓石が放置されているのはその為だろう。しかし管理の手が行き届かないのかこれは酷い。野犬が墓を荒らして死人の骨が出てきたりしてもおかしくない状態だ。
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そして相変わらず崩れかかった斜面には大量の仏具や墓石などの破片が散らばる瓦礫の山が広がっている。
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…で、そんな荒れ果てた共同墓地からフェンス一枚隔てて、唐突に子供の遊具などが見える呑気な空間が丸見えになっている。米軍根岸住宅だ。宗派が違えどアメリカ人は墓場の隣に家があっても平気なのだろうか。
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明治初期からあった共同墓地と比べると米軍根岸住宅が出来たのは戦後の事だ。もしかすると墓地の一部を米軍が接収してブルドーザーで破壊したんじゃねえのかと勘繰ったが、終戦後に米軍が撮影した付近の航空写真を見る限り、墓地の区画は全く変わっていないようだ。
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見晴らしのいい高台を選んでアメリカ人好みの広い庭の一戸建て住宅を優雅に並べて生活している米軍関係者と、それを見下ろす谷底の下町庶民の構図。これが戦後日本の現実なのだ。
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フェンス一枚隔てた向こうのアメリカには当然ながら入る事が出来ない。どうしても入りたければ毎年行われる根岸住宅のフレンドシップデーに行くくらいしか方法がないだろう。
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米軍による立入禁止の注意書きと並んで、墓地の管理者であろう「青木茶屋」の名前で犬の糞を捨てるなとの注意書きがある。ここは日本なのかアメリカなのか分からなくなってしまいました。
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不気味に荒れ果てた共同墓地とフェンス越しの米軍住宅。そのどちらも我々の日常からは大きくかけ離れた非現実的な空間である事は確かだ。まあなんとも、一粒で二度おいしいといった感じの場所である。こんなどす黒い曇り空の下ではなく清々しい秋空の下、根岸共同墓地周辺の散歩を是非お勧めしたい。

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